2019年7月8日月曜日

『青森県中津軽郡藤代村郷土史』より抜粋

 慶應義塾大学図書館蔵の『青森県中津軽郡藤代村郷土史』大正十二年中村良之進著より石渡の部分のみ抜粋。
 ほぼ原文、現物は毛筆による記述。旧仮名遣い、変体仮名、略字体、合字多数あるため、判読不明部分もあるが意味が近いと思われる文字で補ってある。

7.石渡


 大字石渡は元の石渡村として田浦玉水大保は其の小字なり創立の年代不明として
天文頃の郷村名字に見えず余の見聞狭くして未だ精確なる年代を知るを得
ざれども正保四年に於て始めて当村の名称を見たれば今より二百七十七年
以前已に創立せられたる村落の一つなるべし。而して現今の域内稍狭小なれ
ども昔時は今の藤代村大字中崎とも四位と下らざる地域を有せしものと如し其は
今より二百三十八年前なる前記貞享三年の調に石渡村より仕分鳥町村云々右
同断萢中村云々とあれば青女子堰以東東鳥町並び萢中は元石渡の域内にて有りし
は勿論又其頃は今の弘前市浜の町全部並び岩木川と隔てし紺屋町の西北端よ
り春日町の北西に及びたるものなり尤も昔の織座の所も元は萢中領にてありし
と云へり。
津軽年代考記に延宝六年石渡御蔵立云々とあり、工藤家記並び津軽秘鑑にも六年
と有り。又津軽旧記事には延宝七年当年石渡倉立云々とありて津軽暦年図並び永
禄日記信政公記、又工藤家記にも七年とあり、又縣邑雑記に石渡村上賦倉府二在邑
中云々とあり、斯の如く六年と七年の差異あるが元来石渡の倉廩は二棟ありし
を以て六七年と前後に建設せられたるものなるべきか。又信政公記に天和三年三
月より新道御蔵前町割家立みる云々、又津軽年代考記天和元年酉の所に石渡橋
掛かる云々、又津軽歳代私記に天和三癸亥年三月石渡見付枡形並番所被仰付云々と
あり。右石渡御蔵の遺跡は今の浜の町の中央以南西側三十二番地より四十番地
まで掛れり。又今より四十余年前迄は今の富士見橋より数間上流に石渡の橋と称
へて粗造の橋あり之は石渡村の持分にて他町村の人々より橋銭を取りて渡らし
めたり。又石渡見付枡形云々と云うは後世の紺屋町の枡形の事にして富士見橋の
東畔に当れり同所は二十五六年以前迄は低き土居に並木の松三四株残りて
有りしか今は全く廃滅せり。斯の如く今より二百四十六年前延宝六年に倉廩を
建て其れより四年の後天和元年に橋掛り、元は船渡其れより二年の後に町割家
立始まりし順序となる。是を以て考ふるときは浜の町は元石渡村の領内にて有り
し事は明瞭なり。

昨年の調査に依れば当初の戸数二十七人口百八十九、田地二十七町一段二畝十六
歩、畑地一町六反一畝歩、宅地四千百七坪六合ありと。

○独狐野合 古記に正保つ四年石渡村より独狐村へ新道を開く普請奉行小山
三郎右衛門もっと新道南側へ柳植付云々、又永禄日記に同年石渡村より独狐村まで街道
新規相開き普請奉行小山三郎左衛門司之新道両側へ柳植付候云々とありて
右衛門と左衛門は一方の書違ひ又両方と南側は書誤りなるべし、尤も秘
鑑及び歴年図にも新道の事を載せたれども奉行と柳の事を省略せり今独狐
野合青女子堰の岸に廻り九尺四寸の柳一株残れるは大正七年の秋大風の為め
に倒れたる石渡野合同堰の岸に在りし一丈九寸廻りの柳及び槌子の藤田氏の
宅前にある一丈五寸廻りの柳と共に今より二百七十七年以前の記念樹なる
べし外に独狐野合に現存せる大小四本内一本枯と石渡野合にある五本の松二本の榛
木(はんのき)一本の萢タモは後世植加えたるものなるべし。

○追分石 石渡に於ける新旧両道の事は裏にも記載したる如くなるが其の分岐
点とは明治の中年頃まで無年号なれども、いせやの名義を以て建てたる追分石
ありて鰺ヶ沢、木造道を指示せるものなりしか今は石渡の東南裏通り其の邸中
に放棄せられて二百七十七年以前の記念碑も全く無意義のものとなるに
至れり。

○一里塚 石渡野合の中央部以南に当り藤代堰の二枝流僅か数間を隔てて道路
を横断せる所あり其内北の堰の北岸を境として一方は青女子堰の両眼藤代領な
る梯形の低き田地はその移籍なり、また一方は其れと相対して街道の東側鳥町領
の酸いでに当たれり元は高さ各五六尺の盛の上に欅一株宛(あて)植えて有りしが明治改正
の頃取除かれたりとのことを今は其跡形を右に止めざるは遺憾とする所なり最も右
の欅材は北鳥町の殿様石戸谷氏の床柱等に使用せられたりと云う。

○代官役所の跡 貞享の昔藤代組を定められし当時の事は不明なれども明治維
新当時の代官役所は幸二郎屋敷と称(とな)へ当所の中央東側両小路の間三十一番地
に当り今は土谷修三氏所有の地所として表口約二十四間半南奥行二十四間半北
奥行二十八間半裏口十九間半(雪上の測定)あり但し右役所の建物は今の藤代村役
場は則ち是れとして表口七間奥行四間に縁側押入附きなりしか今は一部改修せ
りと。

○石渡の塩硝小屋 津軽年代考記に安永六酉五月二十四日石渡川原にて塩硝
小屋焼足軽一人死云々とあり右の椿事は津軽旧事記並び同秘鑑、同一統志、暦年
図にも出てし今より僅か百四十七年以前のことなれども其の遺跡詳かならず尤
も石渡川原とあれば今の浜の町の川原にして小屋とあれば塩硝製造場の事なる
べきか。

○無格社 羽黒神社 祭神倉稲魂命(くらいなだまのみこと) 一説に大宮売神(おほみやめのかみ)、保食神を合祀せりと。
本社は石渡字田浦七十四番地畑及別九畝歩ある民有耕地に在り祈念祭四月二日
例祭六月二日、新嘗祭一二月二日なり。元来当村にては八代と組合い当社の北へ隣
接せる八代の領地内遺跡残れりに羽黒神社を奉祀せしに明治の初年頃船水の産
土神へ合祀となりしを以て明治二十一二年の頃新たに本社を今の社地へ鎮座し
て産土神とせられたるものなれども今は社格の無きは遺憾なり。
現時本殿兼雨覆共小羽柾葺一間半に二間神楽殿萱葺土間二間半鳥居三
基あり。境内に明治五年廃社になりし馬頭観音の石塔あり、是は元石渡の村中
に在りて惣染堂(そうぜんどう)として祭りしを此所へ移したるものなり。外に無銘の小石地蔵
立てり。境内の四方は広漠たる田地にして神社としては適当の地なれども二三の
小松杉の外はアカシヤの林なれば何となく崇厳を欠き頗(すこぶ)る殺風景の感あり。

○廃社 惣染堂(そうぜんどう) 馬頭観音本社の遺跡は当村内の中央西側青女子堰と惣染堂堰
との岐るる崎に在り明治の初年頃迄は大なる銀杏樹一株ありと、長利家記明治
二年の部に石渡村一惣染堂宇は堂建も無御座候建石立り二面宇気茂千神(うけもちのかみ)と奉祭
来候云々、又微細調に藤代組石渡村一惣染堂一宇右神発建立年月不詳、一堂社石堂
二面建立仕候、一社地二間四方、一境内東西三間南北二間村中抱右者貞享御調云々、
以下略。右は明治五年山屋神官受持の際一旦廃社とありしを其の後今の羽黒神
社親切になりて右境内に移したる石塔是れあり塔の高さ台座共二尺八寸銘に
奉納馬堂観音寛政六申寅年三月二日と刻せり馬頭観音は惣染堂のことに
して神号は保食神なることは言う迄もなく右の銘に依りて見れば本社は今
より百三十年以前の創立と考えられるものなり。

 この文書により、石渡の地名の変遷に関しても新発見があり、後日、書き込む予定。

2018年1月14日日曜日

日本版『汚れなき悪戯』

 何でここに載せるのを忘れていたかなぁ(^^?)
 かなり欠落しているけど、とりあえずね(^^;)/


 映画で超有名な『汚れなき悪戯』だけど、何度か映像化されている。最も有名なのは1955年のスペイン映画、1991年にはイタリアでも製作された。アニメにもなったし、最近ぢゃメキシコが舞台になった映画もあるのかな(^^?)
 この物語を日本を舞台にして描いてみたい。フランシスコ会の修道院で男の子の捨て子拾って、諸事情から修道士が育てることになり、やがて物置小屋の屋根裏の大男に・・・
 なんて展開には、ならない。
 修道院ではなく、道場を有する禅寺。時代も現代。

マルセリーノ
正人(まさと)、やんちゃで悪戯好き。5,6歳くらいになっている。
マニュエル
慎士(しんじ)、正人と同い年で仲の良い友達。
修道院長
老師、高齢だが意気軒昂。80代後半。
おかゆさん
典座、離婚経験があり、子供たちに会えない状況にある。40代。
具合悪いさん
老典座、高齢で寝込んでいることが多い。90代前半。
門番さん
求浄(ぐじょう)、東西霊性交流会の関係で、フランシスコ会の修道院から派遣された司祭の資格のある修道士。30代後半。
門番さんの相棒
導照(どうしょう)、求浄とはなぜか相性が良く、托鉢にもコンビで行くことが多い。寺の跡継ぎ。20代後半。

 この道場は小さい。老師を含めても10人しかいない。
 求浄と導照が托鉢に出かけている途中で、巨大な地震に遭遇する。急いで寺に戻るが、瓦が落ちてきて近づけなかった。近くに避難していると、強い余震があり、木造のアパートが倒壊した。中から赤ん坊の泣き声がした。求浄と導照は、その赤ん坊を救出した。傍らには、若い男女がいたが、既に絶命していた。
 あとで分かったのだが、この若い男女は赤ん坊の親ではなく、学生ボランティアだった。倒壊したアパートで生存者を探して、被害に遭ったようだった。倒壊したアパートには高齢者しか住んでおらず、結局、赤ん坊の親は分からなかった。
 修行僧たちは、修行の妨げになるので、赤ん坊を施設に預けようとするが、地震直後の混乱で、どこも引きうけてくれない。仕方ない、寺でしばらく預かることにした。
 だが、寺は男所帯だし、地震で多数の家屋が倒壊して、檀家にも助けを求められない。それでも、幸運にも草刈用にヤギを買っている檀家があり、それもメスで子供を生んだばかりだったので、その乳を分けてもらい、赤ん坊に与えた。

 正人は、やんちゃ盛りとなった。しかし、修行僧たちは、心配だった。母親のいない環境で育つことを・・・
 正人は、檀家の息子、慎士と友達になる。しんちゃんと呼んでいた。正人は、慎士の家族を羨ましく思うようになる。
 心配した求浄と導照は、托鉢に正人を連れていった。最初こそちゃんとくっついてきた正人だったが、飽きてきたのか縁日の出店の中に消えていった。それから悪戯が発覚して、大騒ぎに・・・
 それでも、愛くるしい小坊主ってことで、正人は街の人気者になった。

 正人は修行僧から近づいてはいけないと言われていた池に、慎士を誘って遊びにいった。ザリガニ釣りに興じていた。正人は大きなザリガニを釣り上げたところで、覗き込んでいた慎士が池に落ちた。とっさに正人は、池に飛び込んで慎士を池から出した。慎士は大声で泣き出した。正人は力尽きて、池に落ちていった。
 慎士の泣き声に気づいた修行僧たちが、池から正人を上げた。まだ、息があった。

「しんちゃん、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ。安心して。」

 それを聞いた正人は、安らかに笑みを浮かべて死んでしまった。


 人気者の正人の死は、街中の悲しみとなった。そして誰からともなく、正人を模した地蔵を街のあちらこちらに建てた。
 カラオケボックスには、マイク片手のカラオケ地蔵。ガソリンスタンドには、給油ホースを持った給油地蔵。バッティングセンターには、バットを担いだ野球地蔵。学習塾にメガネをかけて読み書きする、勉強地蔵・・・

 冒頭、『汚れなき悪戯』「マルセリーノの唄」が流れ、街の至る所にいる可愛い地蔵の姿が流れ、やがて線香の煙の向こうに小さなお墓が見え、鈴がなって物語が始まり、そして終わる。



・汚れなき悪戯
https://goo.gl/Yp21DM

2017年10月15日日曜日

切支丹風土記・東日本編


 小学生の頃、そう5年生くらいの時だったかな。天正遣欧少年使節を取り扱った子供向け読み物を読んだことがあった。
 読み終わって、親しい友達の近況を知ったよーな不思議な感覚を覚えたものだった。

 それから、中学2年の頃だった。マンネリ気味の授業に飽き飽きしていたら、社会科の先生が言うことには・・・

「江戸時代、紺屋町の修道院のある辺りに切支丹の処刑場があった。」って、話していた。

 当時の知識では、切支丹と言えば長崎と思っていたので、意外に思ったものだった。
 帰宅後、親父殿にこの事を聞くと・・・

「処刑場のことは知らないけど、尾太鉱山に切支丹がいた話は聞いたことがある。」
と、言っていた。

 そっかぁ。弘前にも昔は切支丹がいたのか・・・
 以来40年余り、津軽の切支丹に興味を持ち、県外に就職した後も、帰省するたびに本屋を巡り郷土史に関わる本を立ち読みしたものだった。

 月日は流れ、30代の頃、知人に誘われて群馬県桐生市にある”黙想の家”を訪れた時のことだった。
 まぁ、普段の私をご存知の方には、分かると思うけど、到底黙想と縁遠い私なのだが・・・
 結局、身の置き場に困った私は、図書資料室に籠った。その時出会ったのは、「切支丹風土記・東日本編」だった。
 およそ、私が生まれた頃に出版された本で、切支丹にまつわる郷土史研究家の著述が載っていた。その中で、特に注目したのが、「津軽の切支丹(松野武雄)」だった。それまで、断片的な事しか知らなかったので、津軽の切支丹に関してまとまって書いてあったので、随分助かった。
 翌年も、この”黙想の家”を訪れ、重要な部分を手帳に書き写した。それでも時間が足りなく帰宅後、国会図書館に数回通って、更に読み込み、メモを取った。

 すると、私の意識化に沸々と湧き出すイメージがあった。それが現在の「無名の殉教者」に繋がった。
  1. 切支丹たちが弾圧を避けて逃げ惑い、やがて津軽を約束の地として目指す。
  2. 津軽に到来した切支丹と既に来ていた浪人たちとの衝突と和解、そして殉教・・・
  3. 切支丹類族も一人もいなくなり、切支丹弾圧も過去の出来事になった頃、キリストの受難を体現するするよーな義民の出現して・・・

 この書籍は、色々なインスピレーションを与えてくれたが、私には文才が無いので、どーにも話がまとまらない。
 お酒でも入れば、語るのは得意なのだが・・・

2017年10月11日水曜日

津軽キリシタン処刑地


 私以前に入念に調査した大先輩がいました。
 すでにその場所は、ほぼ確定したみたいです。

 現在の明けの星幼稚園の裏手で、現在の栄町1丁目の南端に堰が合流したり分流している箇所があり、当時は4つの堰に分流していたよーです。
 確かにこの場所だと、旧市内に住む人には、紺屋町のすぐ裏手に思われたのでしょう。それに当時は岩木川の流れも今とは違い、この付近まで流れ込んでいたのでしょう。それが後年、流れが変わり田んぼとなり、今では住宅地になった。
 私自身は、栄町1丁目でも、もっと岩木川に近い場所かと思っていたけど、意外と奥まった場所なのだ。

 以前勤めていた会社で、全社を挙げてチラシ配りをしたことがあった。その時、私の担当に栄町が割り当てられた。この処刑場跡と思われる場所も、現在は住宅地になっていた。ただ、通路が行き止まりになっていて妙な違和感を感じたのを鮮明に覚えている。

 津軽には、篤信の切支丹が流されて来たが、外国人宣教師と接触があまり無く、やがて日本人の心にキリスト教がこなれていったのかな(^^?)
 キリストはゴルゴだの丘で十字架にかけられたけど、津軽の切支丹は岩木山が見下ろす岩木川原で十字架にかかった。

 その頃の情熱・パッションが形を変えて今のジョッパリ精神に繋がっていると、私には思えてならない。


・津軽キリシタン処刑地、四ツ堰
http://hiroseorth.blogspot.jp/2015/09/blog-post.html

・津軽キリシタン処刑場 四ツ堰2
http://hiroseorth.blogspot.jp/2015/09/blog-post_7.html

2017年10月9日月曜日

”堰”は、いずこ・・・





 津軽の切支丹を研究していて、分からないコトの一つが処刑場がどこだったのか?
 松野武雄氏の「津軽の切支丹」を引用する形で、『切支丹風土記・東日本編』にある記述では、弘前市内西方岩木川岸紺屋町の田圃、通称四ツ堰と言うことになっている。
 ちなみに、紺屋町と言う名称は、切支丹の処刑から百年ほど経った時期、京都から養蚕・機織りの技術者が移住してきてできたらしい。
 実際に切支丹が処刑された頃の町の呼称は、今となっては分からない。

 今日、発見した資料によれば、七ツ堰は確認できるらしいが、ほかのナンバーを振られた堰は確認できないらしい。
 そこで、注目を集めたのが、”萢中堰(やちなかぜき)”なのだ。
 今まで言われていた場所の対岸にあたる場所が、萢中(やちなか)と言う場所があり、そこを通る堰なので”萢堰(やちぜき)”と言っていたらしい。
 すると、ヨツとヤチ・・・・
 音の響きが似ていると思うのは、私だけだろうか(^^?)

 一般的に処刑は、見せしめの意味があるので、切支丹を処刑するなら、切支丹の集落で行われると思う。
 すると、当時は築城や町作りのために、岩木川の上流から運んできた石材を荷揚げする人足が集落を形成して、石渡組と呼ばれていたらしい。
 旧市内から見ると、岩木川の対岸が石渡だったらしい。今では、集落の中心で代官所のあった周辺だけが石渡として、その名を留めている。
 その集落に、諸国から集まった浪人のほかに切支丹も紛れ込んでいたのかな?

 処刑には、割と開けた場所が必要なので、今の萢中地区の熊野神社周辺が適地と思われる。
 ただ残念なことに、この辺は岩木川の流域に当たり、度重なる岩木川の氾濫で古い遺物はほとんど残っていないと思われる。
 天保飢饉の供養塔が、確認できる最古の遺物らしい。

2017年10月8日日曜日

謎の場所


 以前、仕事で訪れた弘前市内の武家屋敷などが点在する高級住宅街に、不穏な空き地があった。
 そこは細い路地が入り込んでいる上に、一方通行があったりして、クルマでは容易に近づけない場所だった。

 あれから数年、今日やっとその正体が分かった(^_^)/

 空き地にあった所有者を示す立札がキーになった。そこには、”NHK”の文字があった!
 確か、NHK弘前支局は、下白銀町にあるけど、気になった場所は、弘前市仲町伝統的建造物群保存地区にぽっかりと空いていた。
 昭和42年に現在のNHK弘前支局ができる前まで、昭和13年からNHK弘前支局があった場所だったのだ。その後、NHK職員の宿舎となっていたのが、老朽化したのかな(^^?)
 取り壊されて、今は更地になっているらしい(^^?)

 何とその場所は、藩政時代から昭和初頭まで監獄があった場所なんだそーです(@.@)
 江戸時代には、牢屋、牢役人の屋敷なんかあった一帯なんだそーです。
 ん~、住宅密集地の空き地なのに、妙に張り詰めた空気が漂っているよーな感じがしたわけだ(^^;)

2017年8月3日木曜日

沈黙 -サイレンス-






 本日、やっとネット上で本作を見ることができました。
 パソコンで見たので、せいぜい24インチサイズの画面でしたが、中々迫力がありました。
 切支丹と言うものに興味を持って、既に45年になります。すると、色々と殉教に関する資料に接しますので、ある程度は知っていたつもりですが・・・
 やはり、拷問や残虐な処刑には思わず心が塞ぐ思いでした。

 わたし的には、キチジローを演じた窪塚洋介が善かったですね。
 正にキチジローって、感じに思えました。

 最後に岡田三右衛門ことセバスチャン・ロドリゴが亡くなり、座棺して棺桶が運ばれるシーンにちょっとドキッとしました。
 正に45年前の2月頃に夢で見た殉教者の足元に置かれていたのが、あの大きさあの形の棺桶だった。そこに水が張ってあって、磔柱の上で息絶えた人に向かって、通りすがりの人々が次々と桶の冷水を掛けていた。


 奇しくも明日は、津軽における最初の殉教から400年になる日です。
 ある者は流罪になり、またある者は苛烈極まりない弾圧を避けて逃避して来る。それが津軽の地だった。
 彼らには、ある意味で希望の大地・・・
 いや、切支丹にとっての約束の地だったのでしょう。でも、現実は厳しかった。
 あぁ、なんとかその辺を文章に起こしたいところだけど・・・
 まっ、暫くは酒席で私の語りでね(^o^)/


・沈黙 -サイレンス-
http://chinmoku.jp