2017年6月27日火曜日

殉教400年

慈母観音/田村竹世

 弘前で初めてキリシタンが処刑されたのが、元和三年(1617)の8月4日だった。
 時期的にもねぷた祭りと重なっているので、切支丹殉教者追悼ねぷたでもあるといいけど、そんなことは無いね。
 鏡絵は岩木川開削之図、裏の袖絵の上には岩木山、両脇を貫くように岩木川が流れ、見送り絵は雪中慈母観音ってどーでしょう?
 ついでに、この慈母観音が赤子をだっこしていると、なおさら良いと思うけどなぁ(^^?)


・無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):追悼
http://subdeacon.blogspot.jp/2017/03/blog-post_10.html

津軽版『日曜はダメよ』



 それは、ある年の夏休みの出来事だった。
 城郭オタクの青年が、インターネット上の情報を元に弘前に来ていた。
 まずは、定番の弘前城に来たのだが、思っていた以上に城郭が広くて、少々歩き疲れていた。
 次に「升形」を見に行こうと思って、客待ちしていたタクシーの運転手に「升形」まで行ってくれるか尋ねたが、思うように意思の疎通ができなかった。
 そこに自転車で通りかかった女子高生が、弘前市観光館で自転車を借りることを勧めてくれた。簡単に自転車を借りることができた。
 タクシーの運転手が何を言っていたのか、女子高生に解説してもらうと・・・

「升形」周辺は、交通量が多い上にクルマを止める場所も少ない。「升形」近くにクルマを止めるので、歩いて「升形」を見に行ってくれないか?

 って、ことだったらしい。言葉に不安を感じた青年は、この女子高生にガイドを頼んだ。すると、携帯電話でボランティアガイドをしている祖父を呼び出して、ガイドを押し付けて、女子高生は・・・

「日曜はダメなんです。」

 って、謎のことば残して立ち去った。後にはやる気満々の老ガイドとオタク青年が残った。
 老ガイド、「升形」の歴史や構造を説明した。次に最勝院の五重塔、禅林街や長勝寺構えを案内して、仏舎利塔で休憩となった。
 オタク青年が老ガイドに尋ねた。

「弘前と言えば桜!
 江戸時代の昔から花見が盛んなんでしょうね?」

 老ガイド曰く、「弘前城内の桜は、東の内門を出たところにある”かすみ桜”が最古で、ソメイヨシノは明治以降に植樹したもので、今のさくら祭りの前身である観桜会が大正時代に始まってから桜の名所になった。」
 更に、弘前市内、近郊の神社仏閣には、戦国時代の遺構の上に築かれたものが多いので、これらにも注目して欲しいと・・・
 最後に、鰺ヶ沢町の種里城を訪ねてみるように勧めた。

 オタク青年、もう一つ老ガイドに尋ねた。

「何で、日曜はダメなんですか?」
「入院中の子供たちの遊び相手になったり、勉強の手伝いをするボランティアに参加しているからだよ。」


 まぁ、急に思いついたのは、このくらいですね(^^;)
 津軽三味線の”Never on Sunday”もイイかも知れませんねぇ(^o^)/


・日曜はダメよ
https://goo.gl/wLKuVG

2017年5月22日月曜日

再開に向けて







 4月10日に叔父が亡くなり、怒涛のように日々が過ぎていった。
 その間にVistaのライセンスが切れ、メインで使っているパソコンが不調を来した。
 必死の復旧作業も虚しく、一向に改善しなかった。
 そんな中、唯一のWindows10をインストールしたノートパソコンを、誤ってHDDを消去してしまった。

万事休す(>_<)

 ダメ元で、誤消去したノートパソコンに”Windows 10 Creators Update”それもProの64ビット版をインストールしたら、あっさりと動いた。
 以前、Windows10がインストールされていたパソコンだったので、よかったらしい(^^;)/
 勢いに乗って、Vistaマシンに同様に”Windows 10 Creators Update”のProの64ビット版をインストールしたら、さすがに「金払え!!」攻撃に遭遇した(^^;)
 まぁ、どーにか資金を工面してライセンスを購入したら、メモリ障害の残るノートパソコンよりも安定稼働している(^_^)/

閑話休題!

 昨日、所用があって市立図書館に立ち寄ったら、『無名の殉教者』の資料に使っている書籍を発見した。
 以前から何度も、足を運んでも見つからなかったのに・・・
 いやぁ、これでブログを再開できそぉ(^o^)/

2017年4月9日日曜日

無名の殉教者 - 逃避行のルート


 三浦半島の田浦の地から逃避行を始める一行の頭領の名を、モニカにしていたけど、マルタにします。こっちの方が日本語っぽい語感があるのでね(^^;)/
 この頭領が亡くなって埋葬された地が、マルタ塚->丸田塚->丸田森->丸太森と変遷すると、後々ストーリー展開に使えるかな(^^?)

 三浦半島から江戸・浅草を経由して津軽に至る経路を考えないといけない(^^;)
 まぁ、立ち寄りそーな場所は、仙台と水沢くらいしか思いつかない。当時は、日光街道が整備の始まっていないけど、日光街道の元になった古奥羽街道はあったはずなので、今の日光街沿いに北に向かうのだが、追っ手に追われて太平洋側に出たところで、巨大地震に遭遇する。その後、引き波で海底が露出した場所を通って対岸に渡る。
 あと、どこで老人を拾うかだけど、浅草を立って間もなくとすると、日光街道のわき道なのかな(^^?)
 それに、どこかで燃える柴にも、遭遇しないとね(^^;)

 こりゃ、ルートの選定は中々難しい(^^;)/

2017年4月8日土曜日

無名の殉教者 - 失われた説教の断片


 ペテロ岐部神父同席の元、善造が切支丹信徒に向かって最後の説教を話す場面があったのだが・・・
 あれは、ノートワープロに書き溜めてあった文書だった。その後、DOSファイルに変換してフロッピーディスクで保管していたが、引越の際に散逸してしまったらしい。
 記憶を辿れば・・・

 幕府から切支丹弾圧のノルマを課せられた弘前藩、下役の佐々木が善造に全てを打ち明けると、自分が進んで処刑されると善造が申し出る。慌てる佐々木。
 後日、今生の別れに佐々木が酒を持って、善造を訪ねる。善造が佐々木に弱音を吐く。嘲笑しろと、佐々木に迫る善造。なだめる佐々木を振り切って外に出る善造。

そして、最後の説教。

 私は信じる教えに従って、同信の者、友なる者の助けになるなら、この命を我が信じる神なるデウスにお返しするだけのこと。
 皆の者、私は一足早くパライソに赴くだけだ。先に行って、待っているぞ!

 ん~、もっとあったよーだけど、思い出せない(^^;)
 思い出し次第載せますね(^^;)/

2017年4月7日金曜日

無名の殉教者 - 慶長大地震


 慶長年間って、大地震(慶長大地震)が頻発していたらしい。その中でも慶長三陸地震は甚大な被害を出している。この震災からの復興事業の一環として慶長遣欧使節が派遣されたとも言われている。
 だけどこの地震は、慶長十六年十月二十八日(1611年10月28日)なので、浅草教会の取り壊しが慶長十八年(1613)となり後になってしまう。
 すると慶長十九年十月二十五日の地震が、かなり絶妙な感じ。西暦で言えば、1614年11月26日で、浅草教会の取り壊しのあとに起きている。更に、震源が日本海側(現在の新潟県)にもかかわらず、太平洋側の銚子でも津波が観測されている。恐らくは、複数の地震が連動して発生したのぢゃないかな(^^?)
 この線で、物語を構築しなければ(^_^;)/

2017年4月6日木曜日

無名の殉教者 - 丹下豊後改め丹下文吾


 どーもこの記録は、口伝されていた話を書き留めたものらしく、年号が誤っていたり色々と誤りがあるらしい。
 ってことで、ほぼ原文を引用してみる。

 此度切支丹之者共十一人引捕へ、牢屋に押込置候之処、今日於御會所御評定有之候。然に右十一人之中に丹下豊後と申浪人御座候而、此者は江戸表、浅草前亀屋と申宿にて笹川おせんと申順礼切殺候事、本人所持之品々中より及露見、段々取調之処、逐一白状致申立候は、去る慶長十一年午年三月九日信州巻田と申所にて公論之末、笹川兼六と申浪人を切殺候。依之其妻子之者仇討之為順礼となり、相尋居候砌、浅草亀屋と申宿にて右の順礼も切殺候へは、其子又々順礼致相尋居候趣申立候。依之右之者共は不残死罪可為致之処、右之状々御公儀に申達、御伺申遣之間、御返事下着迄右之浪人牢屋に入置様申付候。
 右に付残之十人は死罪申渡候様、被仰付候。依之死罪之者共は家財不残妻子之与、御国払申付候。右申渡之趣申入候。

恐惶謹言
寛永三寅年正月十一日
津軽越中守
御大老中
  この中で、名前の”豊後”は、ちょっとおかしい。”文吾”ぢゃないのかな(^^?)
  ”公論”って、これは書き写した人の誤りかな。”口論”だよね(^^;)
  それから、信州に”巻田”って地名は見当たらない。そこで、”マキタ””マイタ”で探してみたらあった。上田市に”舞田”って言う地名がありました。ひょっとしら、ここなのかな(^^?)
  ご存知の方は、信州の巻田を御教示下さい(_"_)

閑話休題。

  読み下し文は、こんな感じなのかな。

 このたび切支丹の者共十一人引き捕らへ、牢屋に押し込め置き候のところ、今日において御会所御評定有りとの候。しかるに右十一人の中に丹下豊後と申す浪人御座候に、この者は江戸表、浅草前亀屋と申す宿にて笹川おせんと申す巡礼を切り殺し候こと、本人所持の品々より露見におよび、段々取調べ候のところ、逐一白状致し申し立て候は、さる慶長十一年午年三月九日信州巻田と申す所にて口論の末、笹川兼六と申す浪人を切り殺し候。これによりて妻子の者仇討ちのため順礼となり、あいたずねおり候みぎり、浅草亀屋と申す宿にて右の順礼も切り殺し候へば、その子又々順礼あいたずねおり候おもむき申し立て候。これによりて右の者共は残らず死罪致すべく処、右の状々御公儀に申し達っし、御伺い申し遣いの間、御返事下着まで右の浪人牢屋に入り置き申し付け候。
 右に残らず十人は死罪申し渡し候のよう、仰せ付けられ候。これにより死罪の者共は妻子にあたえ、御国払い申し付け候。右申し渡しのおもむき申し入り候。

恐惶謹言
寛永三寅年正月十一日
津軽越中守
御大老中
  亀屋で笹川おせん母娘を惨殺した時期は不明だけど、慶長十一年(1606)からそんなに時間が経っていないとすると、慶長十八年(1613)の浅草教会が取り壊された時期と重なってくる。
  直接、教会の取り壊しを目撃していないまでも、取り壊しによって行き場を失った切支丹と行動を共にした可能性はあるのかな。
  さうさう、海が割れる場面は無いけど、津波の引き波で海底が露出することはあると思うので、該当する地震や津波が無いか調査せねば(^^;)/