ほぼ原文、現物は毛筆による記述。旧仮名遣い、変体仮名、略字体、合字多数あるため、判読不明部分もあるが意味が近いと思われる文字で補ってある。
7.石渡
大字石渡は元の石渡村として田浦玉水大保は其の小字なり創立の年代不明として
天文頃の郷村名字に見えず余の見聞狭くして未だ精確なる年代を知るを得
ざれども正保四年に於て始めて当村の名称を見たれば今より二百七十七年
以前已に創立せられたる村落の一つなるべし。而して現今の域内稍狭小なれ
ども昔時は今の藤代村大字中崎とも四位と下らざる地域を有せしものと如し其は
今より二百三十八年前なる前記貞享三年の調に石渡村より仕分鳥町村云々右
同断萢中村云々とあれば青女子堰以東東鳥町並び萢中は元石渡の域内にて有りし
は勿論又其頃は今の弘前市浜の町全部並び岩木川と隔てし紺屋町の西北端よ
り春日町の北西に及びたるものなり尤も昔の織座の所も元は萢中領にてありし
と云へり。
津軽年代考記に延宝六年石渡御蔵立云々とあり、工藤家記並び津軽秘鑑にも六年
と有り。又津軽旧記事には延宝七年当年石渡倉立云々とありて津軽暦年図並び永
禄日記信政公記、又工藤家記にも七年とあり、又縣邑雑記に石渡村上賦倉府二在邑
中云々とあり、斯の如く六年と七年の差異あるが元来石渡の倉廩は二棟ありし
を以て六七年と前後に建設せられたるものなるべきか。又信政公記に天和三年三
月より新道御蔵前町割家立みる云々、又津軽年代考記天和元年酉の所に石渡橋
掛かる云々、又津軽歳代私記に天和三癸亥年三月石渡見付枡形並番所被仰付云々と
あり。右石渡御蔵の遺跡は今の浜の町の中央以南西側三十二番地より四十番地
まで掛れり。又今より四十余年前迄は今の富士見橋より数間上流に石渡の橋と称
へて粗造の橋あり之は石渡村の持分にて他町村の人々より橋銭を取りて渡らし
めたり。又石渡見付枡形云々と云うは後世の紺屋町の枡形の事にして富士見橋の
東畔に当れり同所は二十五六年以前迄は低き土居に並木の松三四株残りて
有りしか今は全く廃滅せり。斯の如く今より二百四十六年前延宝六年に倉廩を
建て其れより四年の後天和元年に橋掛り、元は船渡其れより二年の後に町割家
立始まりし順序となる。是を以て考ふるときは浜の町は元石渡村の領内にて有り
し事は明瞭なり。
昨年の調査に依れば当初の戸数二十七人口百八十九、田地二十七町一段二畝十六
歩、畑地一町六反一畝歩、宅地四千百七坪六合ありと。
○独狐野合 古記に正保つ四年石渡村より独狐村へ新道を開く普請奉行小山
三郎右衛門もっと新道南側へ柳植付云々、又永禄日記に同年石渡村より独狐村まで街道
新規相開き普請奉行小山三郎左衛門司之新道両側へ柳植付候云々とありて
右衛門と左衛門は一方の書違ひ又両方と南側は書誤りなるべし、尤も秘
鑑及び歴年図にも新道の事を載せたれども奉行と柳の事を省略せり今独狐
野合青女子堰の岸に廻り九尺四寸の柳一株残れるは大正七年の秋大風の為め
に倒れたる石渡野合同堰の岸に在りし一丈九寸廻りの柳及び槌子の藤田氏の
宅前にある一丈五寸廻りの柳と共に今より二百七十七年以前の記念樹なる
べし外に独狐野合に現存せる大小四本内一本枯と石渡野合にある五本の松二本の榛
木(はんのき)一本の萢タモは後世植加えたるものなるべし。
○追分石 石渡に於ける新旧両道の事は裏にも記載したる如くなるが其の分岐
点とは明治の中年頃まで無年号なれども、いせやの名義を以て建てたる追分石
ありて鰺ヶ沢、木造道を指示せるものなりしか今は石渡の東南裏通り其の邸中
に放棄せられて二百七十七年以前の記念碑も全く無意義のものとなるに
至れり。
○一里塚 石渡野合の中央部以南に当り藤代堰の二枝流僅か数間を隔てて道路
を横断せる所あり其内北の堰の北岸を境として一方は青女子堰の両眼藤代領な
る梯形の低き田地はその移籍なり、また一方は其れと相対して街道の東側鳥町領
の酸いでに当たれり元は高さ各五六尺の盛の上に欅一株宛(あて)植えて有りしが明治改正
の頃取除かれたりとのことを今は其跡形を右に止めざるは遺憾とする所なり最も右
の欅材は北鳥町の殿様石戸谷氏の床柱等に使用せられたりと云う。
○代官役所の跡 貞享の昔藤代組を定められし当時の事は不明なれども明治維
新当時の代官役所は幸二郎屋敷と称(とな)へ当所の中央東側両小路の間三十一番地
に当り今は土谷修三氏所有の地所として表口約二十四間半南奥行二十四間半北
奥行二十八間半裏口十九間半(雪上の測定)あり但し右役所の建物は今の藤代村役
場は則ち是れとして表口七間奥行四間に縁側押入附きなりしか今は一部改修せ
りと。
○石渡の塩硝小屋 津軽年代考記に安永六酉五月二十四日石渡川原にて塩硝
小屋焼足軽一人死云々とあり右の椿事は津軽旧事記並び同秘鑑、同一統志、暦年
図にも出てし今より僅か百四十七年以前のことなれども其の遺跡詳かならず尤
も石渡川原とあれば今の浜の町の川原にして小屋とあれば塩硝製造場の事なる
べきか。
○無格社 羽黒神社 祭神倉稲魂命(くらいなだまのみこと) 一説に大宮売神(おほみやめのかみ)、保食神を合祀せりと。
本社は石渡字田浦七十四番地畑及別九畝歩ある民有耕地に在り祈念祭四月二日
例祭六月二日、新嘗祭一二月二日なり。元来当村にては八代と組合い当社の北へ隣
接せる八代の領地内遺跡残れりに羽黒神社を奉祀せしに明治の初年頃船水の産
土神へ合祀となりしを以て明治二十一二年の頃新たに本社を今の社地へ鎮座し
て産土神とせられたるものなれども今は社格の無きは遺憾なり。
現時本殿兼雨覆共小羽柾葺一間半に二間神楽殿萱葺土間二間半鳥居三
基あり。境内に明治五年廃社になりし馬頭観音の石塔あり、是は元石渡の村中
に在りて惣染堂(そうぜんどう)として祭りしを此所へ移したるものなり。外に無銘の小石地蔵
立てり。境内の四方は広漠たる田地にして神社としては適当の地なれども二三の
小松杉の外はアカシヤの林なれば何となく崇厳を欠き頗(すこぶ)る殺風景の感あり。
○廃社 惣染堂(そうぜんどう) 馬頭観音本社の遺跡は当村内の中央西側青女子堰と惣染堂堰
との岐るる崎に在り明治の初年頃迄は大なる銀杏樹一株ありと、長利家記明治
二年の部に石渡村一惣染堂宇は堂建も無御座候建石立り二面宇気茂千神(うけもちのかみ)と奉祭
来候云々、又微細調に藤代組石渡村一惣染堂一宇右神発建立年月不詳、一堂社石堂
二面建立仕候、一社地二間四方、一境内東西三間南北二間村中抱右者貞享御調云々、
以下略。右は明治五年山屋神官受持の際一旦廃社とありしを其の後今の羽黒神
社親切になりて右境内に移したる石塔是れあり塔の高さ台座共二尺八寸銘に
奉納馬堂観音寛政六申寅年三月二日と刻せり馬頭観音は惣染堂のことに
して神号は保食神なることは言う迄もなく右の銘に依りて見れば本社は今
より百三十年以前の創立と考えられるものなり。
この文書により、石渡の地名の変遷に関しても新発見があり、後日、書き込む予定。