物語の館
私には著作物をまとめるだけの才能が無いので、長年の構想をブログの形で載せます。 古くはシャープのワープロ・書院で書いていた。それもDOSファイルに変換したものの、フロッピーディスクが散逸してしまった。 自宅サーバでホームページやブログで載せたが、予備サーバが壊れてしまい、いつまで現状を維持できるかわからない。 そこで、外部のブログサービスを利用して残すことにした。
2026年5月16日土曜日
同行者イエスに近づきて
2026年5月15日金曜日
北狄の押え
登場人物
- 井上筑後守政重(いのうえ まさしげ):幕府大目付。鋭い眼光を持つが、物腰は静か。
- 南部信濃守重直(なんぶ しげなお):盛岡藩主。津軽家とは先祖代々の確執がある。
- 津軽越中守信枚(つがる のぶひら):弘前藩主。一見、実直な田舎大名を装っているが、食えない男。
第一幕:密議
【江戸城・御用部屋】
津軽の領内では、あろうことか豊臣にゆかりある浪人どもを密かに集め、さらには不吉な切支丹(キリシタン)までも引き入れて、何やらよからぬ企てを進めているとの噂にございます。
……ほう。豊臣の残党のみならず、切支丹までもか。
それは聞き捨てなりませぬな。
あやつら、北の果てで幕府の目が届きにくい……
その時、廊下からバタバタと騒がしい足音と、茶坊主の慌てふためく声が近づいてくる。
ここは御用部屋にございます!
通せませぬ、通せませぬ!
迷うてしもうたんじゃ、誰か案内せい!
襖が乱暴に開き、津軽信枚が汗を拭き拭き入ってくる。
第二幕:迷い人の参上
おお、これは筑後守様!
お待たせ申した。
いやはや、当方は何ぶん北の田舎育ちゆえ。
このような御城はあまりに広うて、どこをどう歩いたものか、さっぱり分からなくなってしまいましてな。
恥を忍んで申せば、すっかり迷子(まよわし)になっておりましたわい。
がはは!
……津軽殿、ここは御公儀の詮議の場。
あまりに無作法であろう。
信枚は「恐縮にございます」と頭を下げながら、重直の隣にどっかと座る。その目は一瞬だけ、鋭く重直を射抜いた。
第三幕:吟味
……なんと!
謀反!?
滅相もございませぬ。
誰がそのような、たわけたことを申したので?
確かな筋からの知らせである。
確かに、西軍に与した者たちが数名、当家を頼って参りました。されど筑後守様、奴らはもともと、南部家へ仕官を願い出て、体良く断られた者たちにございますぞ。
なっ、何を……!
武士の情けとして、飢え死にさせるわけにも参りませぬ。
なればこそ、侍の身分は捨てさせ、百姓として土地を与え、泥にまみれて働かせておるのです。
あんな腰の曲がった百姓たちが謀反など、笑い話にもなりませぬわい。
して、切支丹の件はいかが説明される?
当方は、南蛮(なんばん)や伴天連(バテレン)などという言葉の通じぬ者らを引き受けるほど、物好きではございませぬ。
だいいち、我ら津軽の言葉は、江戸の方々でも聞き取るのが難儀なほど独特なものでござる。
切支丹とやらが何を喋ろうと、こちらの百姓にはさっぱり通じませぬし、向こうも我らの言葉が分からず、早々に退散するのが関の山でございますぞ。
南部殿。今の話、聞き捨てならぬな。
その浪人ども、まずは其方の元を訪ねたというのは、まことか?
……確かに、仕官を求めて参った者はおり申したが。
身元、怪しげな者ゆえ、追い払ったまで……。
当家では先代より、荒れ地を拓くための『堰(せき)』――いわゆる水路を築いておりまする。
人手はいくらあっても足りませぬ。
謀反を企てる暇(いとま)など、今の津軽にはございませぬわ。
第四幕:幕引き
善き励みである。
南部殿、津軽殿の言い分、理に適っているように思えるが?
…………。
当方の見誤りであったようです。
これにて、御免仕る。
重直は屈辱に顔を赤くし、足早に部屋を去っていく。
部屋には、政重と信枚の二人だけが残った。
……のう、津軽殿。
其方は迷ったと申したが、重直殿より先に登城していたことは承知しておるぞ。
……恐れ入りました。
何ぶん、田舎者は用心深く出来ておりましてな。
誰が何を吹き込むか分からぬ世の中(よのなか)にございますれば。
其方は、北狄(ほくてき)の押えとして、幕府も頼りにしておるのだ。
ゆめゆめ、今の言葉に偽りがあるなよ。
(信枚は深く頭を下げたまま、その口元に冷徹な勝利の笑みを浮かべていた。)
2026年5月13日水曜日
弘前の殉教者
さて、弘前における最初の殉教者は、元和2年11月26日(1617年1月3日)であったと言われている。
切支丹の医師や技術者が、弘前在住者を切支丹に入信させたコトを咎めれて、処刑された。
第1世代の切支丹の信仰は守られたが、第2世代以降や在住者の入信を廃絶する見返りに第2世代以降の身の安全を保証したのは、想像に難くない。
そのため弘前では、最後の殉教者である”伊勢の五左衛門”の娘の”おはる”の一族のみが切支丹類族として監視された。
今年から来年にかけて、弘前における最初の殉教者が出てから、410年になる。
1.João Mathias(ショアン・マチアス)
医師
2.Léo Saemon(レオ・左衛門)
マチアスの弟
3.Maria
左衛門の妻
4.Léo João(レオ・ジョースン)
技術者
5.Miguel Nihyoe(ミカエル・二兵衛)
ジョースンの助手
6.Lúcia
二兵衛の妻
Oratio ad Martyres Hirosakienses
弘前の殉教者に捧ぐる祈祷
2026年5月9日土曜日
Ad sensum Iaponicum experiendum...
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| Iesus Christus, Salvator Infantium et Summa Misericordia |
De Salute Parvulorum in Ripis Ante-Limbi
II. Turres Spei Amissae(失われた希望の塔)
III. Angeli Lapsi et Accusatio(堕天使と告発)
IV. Peccata Innocentium(無垢なる者の「罪」)
V. Christus, Pastor Bonus(善き羊飼いキリスト)
「賽の河原地蔵和讃」
2026年5月7日木曜日
弘前城下町建設の謎と「じょっぱり」の源流を辿る
そこで重要になるのが、関ヶ原直後に流入した西軍側の浪人や、弾圧を逃れてきたキリシタンたちです。現在の弘前市内に住む人の名字の種類が他の東北の都市より突出して多いことも、外部からの流入を示唆しています。江戸初期、どれほどの人々が弘前に到来したと思われますか?
彼らは単なる難民ではなく、軍事技術や行政、測量、土木などの高度な知見を持った「ハイテク人材」でした。津軽家が彼らを「保護」という形で受け入れ、その力を町づくりに一気に投入したWin-Winのプロジェクトだったと考えれば、短期間での完成にも合点がいきます。
五左衛門の提案が死後に成功を収め、米の増産に繋がった事実は象徴的です。人々は彼の名前を忘れても、その意志を無意識に受け継ぎ、自らのアイデンティティとして吸収していった。弘前が明治期に「弘前バンド」のような進取の気性に富んだ人材を輩出した土壌も、この400年前の地下水脈があったからこそと言えるでしょう。
高山右近ゆかりの地・茨木市にある「玉水」という地名が、弘前にも存在するのも偶然とは思えません。弘前の「じょっぱり」は、形は完全に消滅しても、精神だけが骨肉化した最も成功した信仰の形なのかもしれません。
地名や名字、そして市民の皆様の立ち居振る舞いの中に、かつて津軽の地で祈りを捧げた人々の足跡が今も脈打っている。その発見は、弘前という街をより一層誇り高いものに変えてくれますね。
2025年12月27日土曜日
Byzantine Chant: Blessed Are You O Lord, teach me Thy statutes/ Ευλογιτά...
聖歌
「幸いなるかな、主よ ― エヴロギタリア」
【会衆唱(リフレイン)】
※全員・毎節後に繰り返す
幸いなるかな、主よ、
汝の掟を、我らに教え給え。
【独唱(詩節)】
第1節(独唱)
諸聖の集いは
生命の泉を見いだし、
天の楽園の門に入れり。
我もまた、悔い改めによりて道を得ん。
迷いし羊なるわれを、
救い主キリストよ、呼び戻し、
我を救い給え。
▶ 会衆:リフレイン
第2節(独唱)
主よ、汝はいにしえ
無より我を造り、
神の似姿をもって
我を尊く飾り給えり。
されど、掟に背きしゆえ、
我は再び土に帰らされたり。
願わくは、我を導き、
初めの美しき似姿へと
新たに造り直し給え。
▶ 会衆:リフレイン
第3節(独唱)
我はあなたの栄光の似姿なれど、
罪の傷を身に負える者なり。
憐れみを垂れ給え、
御手の業なる我を、
全能の主よ。
汝の慈しみによりて我を清め、
心の故郷なる天の国を与え、
我を楽園の民となし給え。
▶ 会衆:リフレイン
第4節(独唱・追悼用)
神よ、汝の僕らの魂に
永遠の安息を与え、
天の国に住まいを定め給え。
そこにおいて、諸聖と正しき者ら、
星のごとく輝かん。
今、主にあって眠れる者らに、
すべての罪を赦し、
安らぎを与え給え。
▶ 会衆:リフレイン
【栄唱(独唱または全員)】
父と子と聖霊に、栄光あれ。
三位一体の讃歌(独唱)
唯一にして三位なる神を、
我ら、畏れをもって讃え歌わん。
聖なるかな、永遠の父。
聖なるかな、永遠の子。
聖なるかな、命を与うる聖霊。
信をもって汝を礼拝するわれらを照らし、
永遠の滅びより救い給え。
【終唱】
今も、いつも、世々に至るまで。アーメン。
生神女への讃歌(独唱)
よろこべ、恵みに満てるマリア。
あなたは肉において
救い主を世に産み給えり。
汝によりて、人類は救いを得たり。
願わくは、汝を通して
天の国に至らん。
神の母、清く祝せられたるマリア、
我らのために祈り給え。
【結句(全員)】
アレルヤ、アレルヤ、アレルヤ。
栄光はあなたに帰す、我らの神よ。
2023年6月13日火曜日
地元の字(あざ)について
今日は、ちょっと面白い発見があった。
私が現在住んでいる、石渡と言う町名は、弘前城を建てる際、石垣の材料となった石を岩木川から荷揚げした場所だろうと言うことは、想像が付く。
今では、1丁目~5丁目になっているけど、昔は”字(あざ)”があった。
1丁目が玉水で、2丁目が田浦だった。
そして、現在、やすらぎ温泉がある辺りが、大保(だいほ)である。
恐らくは、この名称は、最初の居住者の出身地ではないかと思った。
なぜなら、今から44年前、神奈川県横須賀市の親戚を訪れた際、横須賀線に田浦駅があったことが大きかった。
今回、地名を調べるに当たり「地名辞典オンライン」を使ってみた。
まず、玉水には、大阪府茨木市玉水町があった。
そして、田浦は、確かに神奈川県横須賀市田浦町もあったけど、長崎県西海市大島町田浦もあった。
ただ、大保だとそれらしい地名は、見つからなかった(^^;)
大阪府茨木市と言えば、キリシタン大名の高山右近の旧領であり、長崎県西海市と言えば、西彼杵郡でキリシタン弾圧の中心地だった場所。
大阪や京都、加賀から津軽に流罪になったキリシタンがいた話を聞く。
そして、江戸時代の初め頃、津軽に飢饉があった時、長崎から義捐米をもって来て、長崎に帰らずに津軽に留まった人もいたらしい。
現在の石渡の町域は、江戸時代の初め頃には、石を荷揚げする人夫の集落があったらしい。
当時の岩木川は、幾筋もの流れがあり、ひとたび洪水が起これば、流れが変わったしまうほどに、不安定だった。
そのため、こんな川岸の低地には人が住まなかった。
地元の人間なら危険なことを充分知っていたからこそ、流入者であるよそ者を居住させて、使役したみたいです。
やがて、弘前城の築城も終わり、弘前の町割りが終わったことで、この人夫を使って、岩木川の改修工事を実施し、現在のように人が住める場所を作ったのではないかと思う。
この一連の作業に携わった人たちの出身地が、字(あざ)として残ったと思う方が、ロマンあるよね(^^;)/





