伊勢の切支丹、五左衛門は弾圧を避け、名古屋に出て、江戸に逃げた後、仙台に逃れ、更に津軽に至った。
津軽では、既に避難民としての切支丹を重用するコトは、過去の出来事になっていた。
五左衛門には、奥方と娘がいた。
弘前に到来した五左衛門一家は、十三湖付近の開拓に応募した。
見ず知らずの人々十数人で集落を作り、開拓事業に従事した。
やがて、大水が出て、にわか作りの集落は、簡単に押し流されて失われた。
失われた者には、五左衛門の奥方もいた。娘の命を守って、失命した。
さて、五左衛門は、気づいた。
開拓に従事する人が少なすぎる!
あと、もう少し人がいれば・・・
五左衛門は、集落の人を数人引き連れて、弘前の城下まで出向いて、藩に開拓人員の増強を願い出たが、謀反を警戒して拒絶された。
五左衛門たちは、城下で開拓に従事する人を求めた。
だが、謀反人として捕縛された。
持ち物を調べらると、切支丹関連のモノが続々と出てきた。
すると、同行した者たちが、切支丹とは無関係だと拒絶した。
藩は、五左衛門の処分にに困り、幕府の大目付・井上筑後守にお伺いをすることになった。
井上筑後守は、五左衛門を処刑して、娘のハルを類族として監視するように指示した。
五左衛門は、岩木川原で火刑に処され、長じた娘のハルは、古切支丹の中田氏に嫁いだ。
切支丹の五左衛門は、自らの生活よりも、周囲の人々の生活を守るために行動して、自らの死を招いてしまった。
だが、信念のある行動は、津軽の人々の心に「じょっぱり」として刻まれるコトになった。