2023年6月13日火曜日

地元の字(あざ)について

 


 今日は、ちょっと面白い発見があった。

 私が現在住んでいる、石渡と言う町名は、弘前城を建てる際、石垣の材料となった石を岩木川から荷揚げした場所だろうと言うことは、想像が付く。


 今では、1丁目~5丁目になっているけど、昔は”字(あざ)”があった。

 1丁目が玉水で、2丁目が田浦だった。

 そして、現在、やすらぎ温泉がある辺りが、大保(だいほ)である。


 恐らくは、この名称は、最初の居住者の出身地ではないかと思った。

 なぜなら、今から44年前、神奈川県横須賀市の親戚を訪れた際、横須賀線に田浦駅があったことが大きかった。


 今回、地名を調べるに当たり地名辞典オンラインを使ってみた。

 まず、玉水には、大阪府茨木市玉水町があった。

 そして、田浦は、確かに神奈川県横須賀市田浦町もあったけど、長崎県西海市大島町田浦もあった。

 ただ、大保だとそれらしい地名は、見つからなかった(^^;)


 大阪府茨木市と言えば、キリシタン大名の高山右近の旧領であり、長崎県西海市と言えば、西彼杵郡でキリシタン弾圧の中心地だった場所。

 大阪や京都、加賀から津軽に流罪になったキリシタンがいた話を聞く。

 そして、江戸時代の初め頃、津軽に飢饉があった時、長崎から義捐米をもって来て、長崎に帰らずに津軽に留まった人もいたらしい。


 現在の石渡の町域は、江戸時代の初め頃には、石を荷揚げする人夫の集落があったらしい。

 当時の岩木川は、幾筋もの流れがあり、ひとたび洪水が起これば、流れが変わったしまうほどに、不安定だった。

 そのため、こんな川岸の低地には人が住まなかった。

 地元の人間なら危険なことを充分知っていたからこそ、流入者であるよそ者を居住させて、使役したみたいです。

 やがて、弘前城の築城も終わり、弘前の町割りが終わったことで、この人夫を使って、岩木川の改修工事を実施し、現在のように人が住める場所を作ったのではないかと思う。

 この一連の作業に携わった人たちの出身地が、字(あざ)として残ったと思う方が、ロマンあるよね(^^;)/