2020年8月5日水曜日

無名の殉教者・シーズン2:切支丹類族


 宗教的指導者が一人もいなくなった状況下で、信徒たちはそれぞれの良心によって、信仰が保たれていた。
 一人の善良な切支丹が、同じ環境で苦しむ異教徒の友を救うため藩に抗議するが、切支丹ゆえに処刑された。

エピソード1:追放

切支丹が弘前城下や周辺の村にいることが、幕府の隠密に知られることを恐れた藩は、切支丹信徒のみ岩木川の下流域に追放した。
  そこには、集落も無く、度重なる洪水で荒れ果てた大地が広がっていた。
  やがて、弘前城下には、諸国の浪人が流入してきて、無益な人があふれていた。
  そこで、藩は、新来の浪人を岩木川の下流域に追放した。ただし、徒党を組まないように少人数で分散させた。

エピソード2:開拓

岩木川の河口、十三湖付近を開拓するために切支丹、浪人それぞれに小規模な集落を形成していた。
  だが、効率が悪く、度々洪水の被害を受けていた。

エピソード3:七日講

表向きには切支丹の信仰は禁止されていた。そのため、七日毎に講を催して集会を開いていた。
  教えの中心は、「慈悲の所作」だった。
  復活祭も聖誕祭も失われても、”雪のサンタマリア”の御祝日だけは、七夕祭りと習合されて残っていった。

エピソード4:大雪

ある年の冬、いつになく大雪が降った。
  個々の集落では除雪が間に合わず、雪の重さで潰れる家があった。
  集落の住民の出自に依らず、どの集落も除雪に人を出して、難を逃れた。

エピソード5:鉱山

尾太鉱山に多数の切支丹が潜んでいた。
  指導的立場の人がいなく、信仰は一代限りで失われていった。
  それでも、「慈悲の所作」は道徳律として残っていた。

エピソード6:救済

伊勢出身の切支丹の集落に浪人たちが投入されたが、一向に開拓は上手く進まなかった。
  災害から集落を守りながら開拓を進めるために、集落の人口を増強するように弘前城下に集落を代表する者が出向いて、藩に救済を求めた。
  だが、藩では謀反を恐れて開拓に従事する者を増やすことを拒んだ。
  代表者たちは、城下にいた浪人を集めていたが、藩から謀反を主導したとして捕縛された。
  その中に、娘のはるを連れてきていた伊勢五左衛門だけが、切支丹として身柄が拘束された。すると、一緒に城下に出向いた者たちは、伊勢五左衛門が切支丹として捕縛されると、急に怒りだした。
  伊勢五左衛門が切支丹だとは、知らなかったし、自分たちには関係無いと、騒ぎ出した。
  やがて、伊勢五左衛門は切支丹として処刑され、はるとその子孫が切支丹類族として扱われることになった。

エピソード7:残酷な成功

藩の救済策は何も無かった。代表者たちは数人の浪人を連れ帰り、開拓事業を続けた。
  小規模であったが、乾いた土地を得て、田畑にすることができ、年貢を納めるまでになった。
  藩では、藩士の次男以降の男子を大量に新田開発に従事させ成功を収めた。
  だが、最初に成功した集落は、切支丹の集落であったため藩の監視下に置かれ、周辺の集落との接触を制限された。

エピソード8:老人と子供

切支丹の村を前にして検地役人の会話から見えてくる村の様子。

佐々木    あの鍬を降るっている若い男女の素性が分かるか?

工 藤    兄に妹か?

佐々木    なぜそう思う?

工 藤    若く見えるが、夫婦なら赤子でも背負うなり、近くに置くなりしているものだ。それが、いない。

佐々木    あれは、子供が生まれて間もない夫婦だ。

工 藤    赤子は、親元にでも預かってもらっているのか?

佐々木    二人とも、両親を亡くしている。

工 藤    では、誰が赤子の面倒を見ている?

佐々木    一人暮らしの婆さんが、面倒を見にきている。

工 藤    身内の者か?

佐々木    いや、ここに村ができてからの者だ。

工 藤    頼って、いいものか?

佐々木    あの夫婦は、信頼しているようだ。

工 藤    他者とは、信用して良いものなのか?

佐々木    切支丹は、信用に足る何かを知っているようだ。

工 藤    それは何だ?

佐々木    御大切(ごたいせつ)とか言うが、何のことか、分からぬ。

工 藤    お前でも分からぬものあるとはな。

  若い夫婦は、作業の手を休めて、役人に深々とお辞儀をした。実に人の良さそうな夫婦であった。佐々木が、切支丹の七日講には行かないのかと、訪ねた。だが、夫婦は自分たち子供の世代以降は七日講には、出てはならぬとのことだった。それよりも、『慈悲の所作』の実践を勧められているとのことだった。
  また、若い夫婦には、開けた農地が割り当てられ、多くの村人は、更に荒れた土地の開墾に従事していた。

エピソード9:偽りの人別帳

津軽領内には、多数の切支丹の集落があったり、城内の御殿医は当地に流罪になった宇喜多家家中の切支丹医師であった。
  切支丹類族として監視下に置かれたのは、伊勢系のはるの子孫のみであった。
  成人したはるは、転び切支丹の中田家に嫁いだ。中田家先代は、長崎から津軽に義援金や米を運んだ者で長崎の戻らず、津軽に留まった者であった。
  田舎館村にはかつて切支丹屋敷があり、切支丹として津軽に来た初代の者たちは、切支丹屋敷に幽閉された。その者たちの間に津軽で生まれた者は、切支丹屋敷の外で育てられた。
  宝暦5年(1755年)の時点で、大光寺の人別帳には、3,762人の人口のうち3,163人が切支丹類族に該当していた。

エピソード10:密かな楽しみ

南蛮人が伝えたカードゲームのトランプは、儒教的考えでは勤労と相容れない賭博として流行していた。
  幕府は、切支丹の弾圧並にトランプを制圧した。そして生まれたのが、花札だった。
  江戸時代の間の禁止令は辺境の津軽藩では徹底されず、津軽の地では根強く残り、ゴニンカン賭博は農閑期の娯楽として親しまれた。

エピソード11:飢饉

岩木川流域は、地味は濃いが、寒冷の地ゆえに度々飢饉に襲われた。
  春先の雪解け水による河川の氾濫、台風、イナゴの害、日照り、大雪、津波による海水の流入、岩木山の噴火・・・
  この地は安住の時は少なく、絶えず飢饉に晒される。そのため、住民の代替わりは早かった。

エピソード12:化粧地蔵

住民は絶えず変わった。だが変わらない物もあった。路傍の地蔵は、切支丹がやってくる前からあった。
  切支丹は、自らの信仰の証しを地蔵に残した。
  やがて北前船の影響で、今日の化粧地蔵の文化が伝えられた。
  化粧を施された地蔵は、切支丹の意匠を身にまとい、多くの悲しみや喜び、怒りも知り、その時々の村人に寄り添いたたずむ。

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