2023年6月13日火曜日

地元の字(あざ)について

 


 今日は、ちょっと面白い発見があった。

 私が現在住んでいる、石渡と言う町名は、弘前城を建てる際、石垣の材料となった石を岩木川から荷揚げした場所だろうと言うことは、想像が付く。


 今では、1丁目~5丁目になっているけど、昔は”字(あざ)”があった。

 1丁目が玉水で、2丁目が田浦だった。

 そして、現在、やすらぎ温泉がある辺りが、大保(だいほ)である。


 恐らくは、この名称は、最初の居住者の出身地ではないかと思った。

 なぜなら、今から44年前、神奈川県横須賀市の親戚を訪れた際、横須賀線に田浦駅があったことが大きかった。


 今回、地名を調べるに当たり地名辞典オンラインを使ってみた。

 まず、玉水には、大阪府茨木市玉水町があった。

 そして、田浦は、確かに神奈川県横須賀市田浦町もあったけど、長崎県西海市大島町田浦もあった。

 ただ、大保だとそれらしい地名は、見つからなかった(^^;)


 大阪府茨木市と言えば、キリシタン大名の高山右近の旧領であり、長崎県西海市と言えば、西彼杵郡でキリシタン弾圧の中心地だった場所。

 大阪や京都、加賀から津軽に流罪になったキリシタンがいた話を聞く。

 そして、江戸時代の初め頃、津軽に飢饉があった時、長崎から義捐米をもって来て、長崎に帰らずに津軽に留まった人もいたらしい。


 現在の石渡の町域は、江戸時代の初め頃には、石を荷揚げする人夫の集落があったらしい。

 当時の岩木川は、幾筋もの流れがあり、ひとたび洪水が起これば、流れが変わったしまうほどに、不安定だった。

 そのため、こんな川岸の低地には人が住まなかった。

 地元の人間なら危険なことを充分知っていたからこそ、流入者であるよそ者を居住させて、使役したみたいです。

 やがて、弘前城の築城も終わり、弘前の町割りが終わったことで、この人夫を使って、岩木川の改修工事を実施し、現在のように人が住める場所を作ったのではないかと思う。

 この一連の作業に携わった人たちの出身地が、字(あざ)として残ったと思う方が、ロマンあるよね(^^;)/



2022年10月28日金曜日

うっかり五左衛門


 伊勢の切支丹、五左衛門は弾圧を避け、名古屋に出て、江戸に逃げた後、仙台に逃れ、更に津軽に至った。

 津軽では、既に避難民としての切支丹を重用するコトは、過去の出来事になっていた。

 五左衛門には、奥方と娘がいた。

 弘前に到来した五左衛門一家は、十三湖付近の開拓に応募した。

 見ず知らずの人々十数人で集落を作り、開拓事業に従事した。

 やがて、大水が出て、にわか作りの集落は、簡単に押し流されて失われた。

 失われた者には、五左衛門の奥方もいた。娘の命を守って、失命した。


 さて、五左衛門は、気づいた。

 開拓に従事する人が少なすぎる!

 あと、もう少し人がいれば・・・

 五左衛門は、集落の人を数人引き連れて、弘前の城下まで出向いて、藩に開拓人員の増強を願い出たが、謀反を警戒して拒絶された。

 五左衛門たちは、城下で開拓に従事する人を求めた。

 だが、謀反人として捕縛された。

 持ち物を調べらると、切支丹関連のモノが続々と出てきた。

 すると、同行した者たちが、切支丹とは無関係だと拒絶した。


 藩は、五左衛門の処分にに困り、幕府の大目付・井上筑後守にお伺いをすることになった。

 井上筑後守は、五左衛門を処刑して、娘のハルを類族として監視するように指示した。


 五左衛門は、岩木川原で火刑に処され、長じた娘のハルは、古切支丹の中田氏に嫁いだ。



 切支丹の五左衛門は、自らの生活よりも、周囲の人々の生活を守るために行動して、自らの死を招いてしまった。

 だが、信念のある行動は、津軽の人々の心に「じょっぱり」として刻まれるコトになった。

2022年9月18日日曜日

Byzantine Chant: Blessed Are You O Lord, teach me Thy statutes

 


 日本語訳を載せてみました。

 機械翻訳ではなく、誰かが翻訳したのかな?

 タイプミスもあったみたいだ(^^;)


 詳細は不明だけど、亡くなった方への祈りなのかな(^^??)


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主よ、祝福を


 汝、聖なる主よ

 汝の戒めを授け給え

 聖人たちの聖歌隊は

 命の源と

 天国に至る門を見出せり

 我もその道を見出せるか

 悔い改むるを以て

 我は失われし羊なり

 我を召し上げよ

 ああ救世主よ、我を護り給え


 汝、聖なる主よ

 汝の戒めを授け給え

 我を造りし汝

 無より

 しかして汝の聖なる似姿とて

 我を称賛せり

 しかれでも汝の戒めに対する罪のために

 我を召しし所より地に戻せり

 願わくは我を再び古(いにしえ)の無原罪の者となし給え

 汝の似姿となし給え


 汝、聖なる主よ

 汝の戒めを授け給え

 我こそは汝の侵しがたき権威の象徴なり

 我は堕落の傷を負いだるが

 汝の業(わざ)たる情けをかけ給え

 ああ至高の主よ

 汝の慈悲を以て我を清め給え

 我が魂の故郷を

 授け給え

 我を天国の住人となすを以て


 汝、聖なる主よ

 汝の戒めを授け給え

 ああ神よ、安らぎを恵み給え

 汝の僕(しもべ)の魂たちへ

 そして彼らの居場所を天国に設け給え

 ああ主よ、聖人たちの聖歌隊と

 公正なるものが星の如く輝く所に

 今は眠りたる汝の僕(しもべ)たちに

 彼らの罪を許して安らぎを恵み給え

 父と

 子と

 聖霊に栄光あれ

 唯一の神の三位格の輝きと

 敬虔な参加によって称えられんことを

 聖なる汝を称えて涙を流さん

 ああ永遠の父よ

 永遠の子よ

 そして聖霊よ

 汝の輝きによって我らを照らし給え

 汝を信仰する我らを

 永遠の業火より救い給え

 今、そしていつの代においても

 アーメン

 実体を持つ慈悲深き聖母に幸あれ

 救世せんとて神を生みし聖母に

 全人類に及ぶ

 救いを見出した聖母に

 汝によって我ら天国を見出さんことを

 純潔にして祝福されし我らが聖母


 ハレルヤ

 ハレルヤ

 ハレルヤ


 我らが神に栄光あれ


 ハレルヤ

 ハレルヤ

 ハレルヤ


 我らが神に栄光あれ


 ハレルヤ

 ハレルヤ

 ハレルヤ


 我らが神に栄光あれ

2020年8月6日木曜日

無名の殉教者・シーズン3:復活



 

無名の殉教者・シーズン3:復活


 全く、切支丹の痕跡も無くなった時代、一人の若者が立ち上がった。彼は、周辺の人々を救済するため食料の備蓄を藩に願い出るが認められなかった。
 それでも強行する彼は、罪人として処刑された。
 だがその遺志は引き継がれ、共助に救いを見いだす。
 やがて、明治維新を迎え、支配的立場にあった人々の子孫に牧師が誕生した。

エピソード1:廃村の復興

  かつて切支丹信徒が復興した村落も、度重なる弾圧と飢饉や疫病の蔓延で、うち捨てられていた。
  日本近海にロシア船が出没するようになり、藩財政が逼迫する中、更なる米の増産が必用となった。
  藩士の次男以下を捨て置かれた村々に投入して、復興することになった。

エピソード2:俵物

  次々と廃村に人が戻ってきた。城下周辺の村々には、活気が戻ってきた。
  だが、山深い地には米が採れなかった。多田と言う男、鉄砲による猟や炭焼きで生計を立てていた。
  米では年貢が納められないので、炭で年貢を納めるように交渉していた。

エピソード3:水路と絆

  およそ弘前の町の始まりと時を同じくして、岩木川下流域の新田開発に功を奏する堰が開削された。
  堰を通じて、上流域・下流域も交流が生じた。

エピソード4:共助

  伊佐治(いさじ)は、村人たちに共助の大切さを説く。

 1.心から求める者は、幸いである。天の国が受け入れて下さるであろう。
 2.悲しむ者は幸いである。慰めるられるであろう。
 3.温厚な者は幸いである。不動の信頼を得るであろう。
 4.義を求める者は幸いである。多くの義が集まるであろう。
 5.情け深い者は幸いである。情けに浴するであろう。
 6.正直者は幸いである。神を見るであろう。
 7.太平をもたらす者は幸いである。太平の申し子と呼ばれるであろう。
 8.義を貫く者は幸いである。天の国が歓待するであろう。

エピソード5:倉廩

  倉廩とは、穀倉のことである。
  特に江戸時代末期、飢饉に備え米を備置する倉を倉廩と言った。
  伊佐治は、神社に奉納する米を多めに倉廩に保存することで、飢饉に備えた。
  神前に供える米は新米を用いるが、残りの米を備蓄に回したのだ。

エピソード6:一揆

  既にある登場人物をあげておく。

イエス:伊佐治(いさじ)
     代理の庄で二十代前半の若者。所帯持ちで、最近、女の子が生まれたばかり。
     父親が庄屋を引退して、長男が跡を継いで庄屋をしていたが、流行り病で急逝したので、急遽庄屋となったが、まだ見習い中。
     そもそも、庄屋を継ぐつもりが無かったので、学問で身を立て村に貢献するつもりだった。

シモン・ペテロ:巌太郎(いわたろう)
     伊佐治の隣村の庄屋。老練なことで有名だった。若い伊佐治を我らの見習うべき”師”として引き立てていた。
     伊佐治が捕らえらえると、代官屋敷に潜り込み救出を試みるが、代官の下女に見つかり逃げる。
     伊佐治が処刑されてしまうと、やっと何を主眼に訴えていた気づく。

ゼベダイの子ヤコブ:三尺坊(さんじゃくぼう)
     この名前は、あだ名。
     農民だが、岩木川の川漁師もやっている。

ヨハネ:修庵(しゅうあん)
     農民の子として生まれたが、学問に興味を持ったことから寺に預けられていた。
     伊佐治の弟分に当たる幼馴染で、村の一大事に寺を抜け出して、駆けつけていた。

アンデレ:安次郎(やすじろう)
     巌太郎の弟。気さくな若者で、顔が広い。

フィリポ:強力(ごうりき)
     この名前は、あだ名。
     村や藩の作事に借り出される大男の威丈夫。

バルトロマイ:兼子(かねこ)
     藩士による農村復興事業に従事していた。武士の面子が邪魔して、農作業に本気で取り組んでいなかった。

マタイ:午平(ごへい)
     代官所に出仕していて、年貢を集める役についている。
     村人の嫌われ者。

トマス:数馬(かずま)
     藩士による農村復興事業に従事していた。藩士の三男であり、家督の相続が望み薄なので、新田開発で知行地を得ようと目論んでいた。
     農業に関して知識が無いので、猜疑心の塊となっていた。
     伊佐治の死後、共同体としての農村のあり方に気づく。

アルファイの子ヤコブ:八十治(やそじ)
     母親同士が姉妹でったので、伊佐治の従弟になる。

タダイ:多田(ただ)
     先祖は、戦国時代の鉄砲隊の隊長だったが、戦に破れて津軽に流れ着いて、湯段村で代々猟師と湯守をやっている。
     山間僻地に暮らしているので、年貢を米ではなく、炭で納めたいと伊佐治に相談していた。

熱心者のシモン:西門(にしかど)
     藩政改革派の急先鋒。土堂村の半地下になった牢に幽閉謹慎の身になっていた。

イスカリオテのユダ:碇村の重太郎(いかりむらのじゅうたろう)
     伊佐治の支援者にして、活動の下働きを担っていた。
     伊佐治を助けたい一心から、役人に伊佐治の保護を求めるが裏切られる。失意のうちに首をくくる。

バラバ:弥三郎
     伊佐治と共に捕らえられるが、弥三郎は年貢の減免を全面に出し、民衆には大いに人気があった。
     恩赦で開放されるが、伊佐治の訴えが後に正しいことを知る。

エピソード7:遅すぎた恩赦

  ここでも、以前書き込んだ登場人物をのせる。

百人隊長:本多東作久貞(ほんだとうさくひさただ)
     伊佐治の訴えが正しいことを知る。
     後に子孫が牧師になる。

村医者:澤野順庵(さわのじゅんあん)
     農民として暮らしながら、地域医療に取り組む。
     伊佐治の事跡を書き留める。
     とにかく子沢山。人だけでなく、農耕に使う牛馬や犬や猫までも、治療する。

ピラト:中田長助(なかたちょうすけ)
     伊佐治が集会を開いた村の代官。

ヘロデ王:津軽寧親(つがるやすちか)
     伊佐治が主導した一揆の際の藩主。良き意見には、身分のわけ隔てなく耳を傾ける。
     伊佐治の助命を許可するが、間に合わなかった。

  津軽寧親公、伊佐治の指摘で自らの至らぬ所を知り、恩赦を発令するが、弥三郎は助かるが伊佐治は取上の刑場で処刑されてしまう。

エピソード8:叶えられた望み

  一揆を起こした百姓たちには、僅かばかりの年貢の減免があった。
  新嘗祭に使う米で残った米は、備荒米として保管することに対して許可が出た。
  更に、備荒米を融通しあうことに関して、藩は勝手知らないと言うことにした。
  伊佐治が言う共助を守った村々は、天保の飢饉を乗り切ることができた。
  だが、孤立した村は全滅を免れなかった。

エピソード9:百人隊長

  伊佐治の処刑に立ち会った。
  伊佐治は死に際にあっても、仲間に共に助け合うことを薦めていた。

エピソード10:横浜

  本多東作久貞の孫・本多庸一と佐々木何某は、藩の命令で英語を習いに横浜に来ていた。
  この2名、今の横浜・元町の洋菓子店に立ち寄ったところで、店主にこんなことを尋ねたらしい。

「この菓子、どこのご家中に納めている?」

 かなり困惑した店主が言った。

「どこと申されても・・・
 お代を頂ければ、どちら様にでも、お売り致します。」

 そこで、佐々木が更に尋ねた。

「なれば、我らでも良いのか?」

 店主曰く・・・

「はい、お代さえ頂ければ、どちら様にでも。」

 佐々木を制する本多であったが、佐々木は本多に言った。

「これも良い経験だ。食おうではないか!」

 少々値は張ったものの、初体験の洋菓子はすこぶる美味かったらしい。
 後にこの佐々木は弘前で洋菓子店を開き、本田はバラ塾に入門して、受洗して牧師になった。

エピソード11:それぞれの道

  廃藩置県の後、佐々木何某は洋菓子で、本多はキリスト教で、それぞれにそれぞれの道を目指して進むのであった。

エピソード12:教会

  本多は、廃校となっていた藩校をミッションスクールとして再開し、自宅に弘前教会を開設した。
  やがて、カトリック教会が建ち、聖公会の教会が建った。
  そして、かつて切支丹の処刑場のあった場所に聖母被昇天修道会の修道院が建った。






2020年8月5日水曜日

無名の殉教者・シーズン2:切支丹類族


 宗教的指導者が一人もいなくなった状況下で、信徒たちはそれぞれの良心によって、信仰が保たれていた。
 一人の善良な切支丹が、同じ環境で苦しむ異教徒の友を救うため藩に抗議するが、切支丹ゆえに処刑された。

エピソード1:追放

切支丹が弘前城下や周辺の村にいることが、幕府の隠密に知られることを恐れた藩は、切支丹信徒のみ岩木川の下流域に追放した。
  そこには、集落も無く、度重なる洪水で荒れ果てた大地が広がっていた。
  やがて、弘前城下には、諸国の浪人が流入してきて、無益な人があふれていた。
  そこで、藩は、新来の浪人を岩木川の下流域に追放した。ただし、徒党を組まないように少人数で分散させた。

エピソード2:開拓

岩木川の河口、十三湖付近を開拓するために切支丹、浪人それぞれに小規模な集落を形成していた。
  だが、効率が悪く、度々洪水の被害を受けていた。

エピソード3:七日講

表向きには切支丹の信仰は禁止されていた。そのため、七日毎に講を催して集会を開いていた。
  教えの中心は、「慈悲の所作」だった。
  復活祭も聖誕祭も失われても、”雪のサンタマリア”の御祝日だけは、七夕祭りと習合されて残っていった。

エピソード4:大雪

ある年の冬、いつになく大雪が降った。
  個々の集落では除雪が間に合わず、雪の重さで潰れる家があった。
  集落の住民の出自に依らず、どの集落も除雪に人を出して、難を逃れた。

エピソード5:鉱山

尾太鉱山に多数の切支丹が潜んでいた。
  指導的立場の人がいなく、信仰は一代限りで失われていった。
  それでも、「慈悲の所作」は道徳律として残っていた。

エピソード6:救済

伊勢出身の切支丹の集落に浪人たちが投入されたが、一向に開拓は上手く進まなかった。
  災害から集落を守りながら開拓を進めるために、集落の人口を増強するように弘前城下に集落を代表する者が出向いて、藩に救済を求めた。
  だが、藩では謀反を恐れて開拓に従事する者を増やすことを拒んだ。
  代表者たちは、城下にいた浪人を集めていたが、藩から謀反を主導したとして捕縛された。
  その中に、娘のはるを連れてきていた伊勢五左衛門だけが、切支丹として身柄が拘束された。すると、一緒に城下に出向いた者たちは、伊勢五左衛門が切支丹として捕縛されると、急に怒りだした。
  伊勢五左衛門が切支丹だとは、知らなかったし、自分たちには関係無いと、騒ぎ出した。
  やがて、伊勢五左衛門は切支丹として処刑され、はるとその子孫が切支丹類族として扱われることになった。

エピソード7:残酷な成功

藩の救済策は何も無かった。代表者たちは数人の浪人を連れ帰り、開拓事業を続けた。
  小規模であったが、乾いた土地を得て、田畑にすることができ、年貢を納めるまでになった。
  藩では、藩士の次男以降の男子を大量に新田開発に従事させ成功を収めた。
  だが、最初に成功した集落は、切支丹の集落であったため藩の監視下に置かれ、周辺の集落との接触を制限された。

エピソード8:老人と子供

切支丹の村を前にして検地役人の会話から見えてくる村の様子。

佐々木    あの鍬を降るっている若い男女の素性が分かるか?

工 藤    兄に妹か?

佐々木    なぜそう思う?

工 藤    若く見えるが、夫婦なら赤子でも背負うなり、近くに置くなりしているものだ。それが、いない。

佐々木    あれは、子供が生まれて間もない夫婦だ。

工 藤    赤子は、親元にでも預かってもらっているのか?

佐々木    二人とも、両親を亡くしている。

工 藤    では、誰が赤子の面倒を見ている?

佐々木    一人暮らしの婆さんが、面倒を見にきている。

工 藤    身内の者か?

佐々木    いや、ここに村ができてからの者だ。

工 藤    頼って、いいものか?

佐々木    あの夫婦は、信頼しているようだ。

工 藤    他者とは、信用して良いものなのか?

佐々木    切支丹は、信用に足る何かを知っているようだ。

工 藤    それは何だ?

佐々木    御大切(ごたいせつ)とか言うが、何のことか、分からぬ。

工 藤    お前でも分からぬものあるとはな。

  若い夫婦は、作業の手を休めて、役人に深々とお辞儀をした。実に人の良さそうな夫婦であった。佐々木が、切支丹の七日講には行かないのかと、訪ねた。だが、夫婦は自分たち子供の世代以降は七日講には、出てはならぬとのことだった。それよりも、『慈悲の所作』の実践を勧められているとのことだった。
  また、若い夫婦には、開けた農地が割り当てられ、多くの村人は、更に荒れた土地の開墾に従事していた。

エピソード9:偽りの人別帳

津軽領内には、多数の切支丹の集落があったり、城内の御殿医は当地に流罪になった宇喜多家家中の切支丹医師であった。
  切支丹類族として監視下に置かれたのは、伊勢系のはるの子孫のみであった。
  成人したはるは、転び切支丹の中田家に嫁いだ。中田家先代は、長崎から津軽に義援金や米を運んだ者で長崎の戻らず、津軽に留まった者であった。
  田舎館村にはかつて切支丹屋敷があり、切支丹として津軽に来た初代の者たちは、切支丹屋敷に幽閉された。その者たちの間に津軽で生まれた者は、切支丹屋敷の外で育てられた。
  宝暦5年(1755年)の時点で、大光寺の人別帳には、3,762人の人口のうち3,163人が切支丹類族に該当していた。

エピソード10:密かな楽しみ

南蛮人が伝えたカードゲームのトランプは、儒教的考えでは勤労と相容れない賭博として流行していた。
  幕府は、切支丹の弾圧並にトランプを制圧した。そして生まれたのが、花札だった。
  江戸時代の間の禁止令は辺境の津軽藩では徹底されず、津軽の地では根強く残り、ゴニンカン賭博は農閑期の娯楽として親しまれた。

エピソード11:飢饉

岩木川流域は、地味は濃いが、寒冷の地ゆえに度々飢饉に襲われた。
  春先の雪解け水による河川の氾濫、台風、イナゴの害、日照り、大雪、津波による海水の流入、岩木山の噴火・・・
  この地は安住の時は少なく、絶えず飢饉に晒される。そのため、住民の代替わりは早かった。

エピソード12:化粧地蔵

住民は絶えず変わった。だが変わらない物もあった。路傍の地蔵は、切支丹がやってくる前からあった。
  切支丹は、自らの信仰の証しを地蔵に残した。
  やがて北前船の影響で、今日の化粧地蔵の文化が伝えられた。
  化粧を施された地蔵は、切支丹の意匠を身にまとい、多くの悲しみや喜び、怒りも知り、その時々の村人に寄り添いたたずむ。

2020年8月4日火曜日

無名の殉教者・シーズン1:脱出と殉教


シーズン1:脱出と殉教


 徳川秀忠による弾圧で取り壊された浅草教会と付属する病院の関係者が、津軽を目指して逃避行を始める。
 途上で助けた老人・・・
 狂信的信徒が招く危機的状況・・・
 弾圧を避けるために、指導的立場にある人々の殉教。

エピソード1:旅の始まり

  現在の三浦半島、横須賀付近の田浦から逃げて来た三浦珠(みうらたま)に率いられた切支丹信徒たちが、浅草の教会に保護を求めてくる。

エピソード2:病院

  浅草教会には、修道院と病院が併設されていた。
  田浦から避難してきた人々が、病院で奉仕活動をしていると、そこに近くの旅籠で返り討ちを果たして手傷を負った丹下文吾(たんげぶんご)が運び込まれる。
  徳川秀忠が差し向けた者たちが、浅草教会に放火した。
  火の手が迫る中、切支丹の領主が治める約束の地・津軽を目指して逃避行を始める。

エピソード3:合流

  たまたま病院に居合わせた丹下文吾も引き連れて、長い旅が始まった。
  途中、山中で謎の老人・担架に寝かされた友蔵(ともぞう)を救出して、一行に加わる。

エピソード4:逃避行(大地震)

  逃避行する切支丹一行が地侍に追われて海岸に出たところで、巨大地震に遭遇する。
  地震直後の引き波で露わになった遠浅の海を渡って逃げた。やがて引いていた波が戻ってきて追っていた地侍たちは、海中に没した。
  山中で道に迷う一行。人の姿に似たヤブ蚊の大群に導かれてて、山中を脱する。

エピソード5:先達の死

  切支丹信徒には信仰が約束された地・津軽が目前になったところで、一行を率いていた三浦珠が亡くなる。
  三浦珠の墓所には、十と∴を刻んだ墓石が置かれ、その場所は十三森と呼ばれるようになった。
  後継者に浅草の病院の医師・善造(ぜんぞう)がなった。
  三浦珠の死を知った友蔵は、担架から起き上がった。寝たきりで身体が不自由だと嘘をついていたのだが、三浦珠が亡くなってしまい自分を保護してくれる者がいなくなったので、本当の事を白状した。

エピソード6:歓待

  切支丹一行を善造が率いて、藩主・津軽信牧に謁見する。
  藩主からの慰労の言葉があり、農地と農具が与えられた。
  農民になることを条件に、切支丹信仰が許された。
  農業に不慣れな者たちは、築城や町割り、河川改修工事に従事した。
  友蔵は、切石の荷上場で賄い方で働いた。やがて、娘か孫娘ほど歳の離れた嫁をもらって、7人の子を授かった。
  社会的動向と無縁に大往生する友蔵だった。

エピソード7:狂信者(カルト)

  信仰が許された切支丹信徒の中には、終末論を掲げて異教徒を断罪する者が現れた。
  この者たちは、旧来の神社仏閣に放火し、仏像やご神体を破壊した。
  地元民と避難してきた切支丹信徒の間で、武力衝突にまで起きた。
  善造の活躍で、人的被害が出る前に衝突は収まった。
  うち捨てられた戦国時代の砦に住み着く切支丹信徒の一団がいた。
  空堀に囲まれた砦に水を引くための水路が作りかけのまま、取り残された。
  ここに住み着いた切支丹は、かつての領主と家臣とその家族であった。
  この一団が結束が固かったが、他の信徒団体との接触を拒み続けた。
  やがて大雪が降った時にも、支援を拒み、次々と集落の家々が雪の重みに耐えかねて潰れていった。
  そのため、村人が亡くなり、かつての領主が一人取り残されていた。
  善造たちは、救出に向かったが、大雪に阻まれ、たどり着いた時は、かつての領主は既に切腹して果てていた。

エピソード8:議定書(プロトコル)

  この騒動は、藩には切支丹信徒の反乱と捉えられた。
  そこで、藩は切支丹の指導的立場にある者たちと議定書を結んだ。
  一、第一に農業に勤しむ
  二、騒動は起こさない
  三、血縁者を含んで津軽に住する者を新たな信徒にしない
  四、切支丹信徒として津軽に来た者への改宗は強要しない

エピソード9:衝突と和解(大洪水)

  精勤する切支丹信徒より一段低く扱われていた浪人たちと、切支丹信徒の間で衝突が続いていた。
  農業用水も上流部を切支丹の村が占めていた。これに反感を抱いた浪人たちが、堰を破壊するに至った。
  やがて台風が襲来して、岩木川が氾濫の危機が迫っていた。もし、氾濫すればやっと開墾した農地が全て失われてしまう。
  切支丹の集落、浪人の集落、それぞれ別々に土嚢を築いたが、あまりにも小規模で、あっと言う間に流された。迫る決壊の危機・・・
  その時、善造は言った。それぞれ持てる力を集結して、この危機を突破しよう!
  切支丹信徒の多くは竹が産するところに住んでいたので、竹細工に長けていた。そこで、地元の根曲がり竹かごを編んだ。
  浪人たちは、鉄槌を振り下ろして砕石を使った。竹かごに砕石いれて、強固な蛇籠を作った。
  杭を打ち込み、蛇籠を固定して、筵の袋で作った土嚢を積んで村を囲った。
  長い雨は止んだ。上流の切支丹の村から、下流の浪人の村まで助かった。
  岩木山に虹が架かった。銘々の宗旨で祈った。朝日に照らされて、美しい光景だった。

エピソード10:殉教

  津軽信牧、江戸城内で大目付より切支丹を保護していないか、詮索された。
  仙台城下でも、切支丹の検挙が相次いでいるにもかかわらず、津軽で検挙者が出ていないことを不審に思われていた。
  そこで弘前藩は、切支丹弾圧の実績を幕府に示す必用に迫られた。
  当初、藩では貴重な労働力である切支丹を弾圧するのは忍びないと言うことで、書類上の弾圧に止めようとしたが、幕府が見聞役人を派遣することになり、弾圧の実績を揚げなくてはならなくなった。
  そこで、藩の担当役人は、善造に相談したのだが・・・
  善造、自ら殉教すると言い出した。死して信徒の範となると・・・
  処刑場では、最後の切支丹信徒として処刑されることを演出した。信徒らが罵声を浴びせたが、苦楽を共にした浪人たちが、助命に動いた。
  善造は、喜びに満ちて昇天していった。その日は、”雪のサンタマリア”の御祝日の前日にして、金曜日だった。

エピソード11:善き偽兄弟の死

  指導者の善造がいなくなったことで、切支丹信徒は混乱していた。
  次の指導者に人一倍敬虔な丹下文吾が指名された。程なく、捕縛されると、正体を明かした。
  切支丹信徒でもなく、信州で人を殺して仇持ちだと言う。藩では、身元を照会すると、信州で殺された人の末の娘がいて、敵討ちに来ることを確認した。
  やがて、この娘が弘前に来て仇討ち本懐を遂げて帰国した。丹下文吾には、地元で得た妻と子供がいたが、所払いとなった。

エピソード12:新たな祭り(和解の印)

  弘前藩は、弾圧の手を休めなかった。
  切支丹に反感を持つ浪人たちを使って、切支丹信徒がはるばる江戸から持参したマリア像を取り上げた。
  更にこの浪人たちにマリア像を蓮台にかつがせて村々を練り歩かせた。逃散した切支丹信徒をおびき寄せるための”おとり”にマリア像を使ったのだった。
  卑怯な手口に怒ったのは、切支丹信徒と和解した浪人たちだった。
  この浪人たちは、マリア像を取り返すために乱闘となった。混乱の中、マリア像は粉々に壊れてしまった。
  だが、切支丹信徒は悲しまず、蛇籠を作った要領で竹ひごで人形灯篭を造り壊れたマリア像の代わりとした。
  そして、善造が亡くなった”雪のサンタマリア”の御祝日に合わせて、切支丹信徒と和解した浪人たち共々、人形灯篭を乗せた蓮台を担いで村々を回った。
  新たな祭りは、和解の印となった。

2020年8月3日月曜日

無名の殉教者(序)


 三部構成の『無名の殉教者』のそれぞれのエピソードを忘れないうちに記しておく。
 慶長18年(1613年)ころから、明治8年(1875年)ころまでの、およそ260年間に及ぶ物語。
 史実では、徳川秀忠による弾圧で取り壊された浅草教会が破壊されたのは、慶長18年(1613年)のことであり、加賀・京都から流罪者の切支丹71人を受け入れたのは、翌年のことだった。
 そして、日本キリスト教団弘前教会の設立までを描く。
 史実は1割もあるだろうか。10歳の頃にみた殉教者の夢。中学生の頃には、津軽の切支丹に興味を持ち、以来、関連書籍を読みあさる。
 長い思索と瞑想の内に見たヴィジョンをまとめた。

 この物語は、三部で構成され、それぞれ12のエピソードを含む。

シーズン1:脱出と殉教

 1.旅の始まり

 2.病院

 3.合流

 4.逃避行(大地震)

 5.先達の死

 6.慰労

 7.狂信者(カルト)

 8.議定書(プロトコル)

 9.衝突と和解(大洪水)

10.殉教

11.善き偽兄弟の死

12.新たな祭り(和解の印)


シーズン2:切支丹類族

 1.追放

 2.開拓

 3.七日講

 4.大雪

 5.鉱山

 6.救済

 7.残酷な成功

 8.老人と子供

 9.偽りの人別帳

10.密かな楽しみ

11.飢饉

12.化粧地蔵


シーズン3:復活

 1.廃村の復興

 2.俵物

 3.水路と絆

 4.共助

 5.倉廩

 6.一揆

 7.遅すぎた恩赦

 8.叶えられた望み

 9.百人隊長

10.横浜

11.それぞれの道

12.教会