小学生の頃、そう5年生くらいの時だったかな。天正遣欧少年使節を取り扱った子供向け読み物を読んだことがあった。
読み終わって、親しい友達の近況を知ったよーな不思議な感覚を覚えたものだった。
それから、中学2年の頃だった。マンネリ気味の授業に飽き飽きしていたら、社会科の先生が言うことには・・・
「江戸時代、紺屋町の修道院のある辺りに切支丹の処刑場があった。」って、話していた。
当時の知識では、切支丹と言えば長崎と思っていたので、意外に思ったものだった。
帰宅後、親父殿にこの事を聞くと・・・
「処刑場のことは知らないけど、尾太鉱山に切支丹がいた話は聞いたことがある。」と、言っていた。
そっかぁ。弘前にも昔は切支丹がいたのか・・・
以来40年余り、津軽の切支丹に興味を持ち、県外に就職した後も、帰省するたびに本屋を巡り郷土史に関わる本を立ち読みしたものだった。
月日は流れ、30代の頃、知人に誘われて群馬県桐生市にある”黙想の家”を訪れた時のことだった。
まぁ、普段の私をご存知の方には、分かると思うけど、到底黙想と縁遠い私なのだが・・・
結局、身の置き場に困った私は、図書資料室に籠った。その時出会ったのは、「切支丹風土記・東日本編」だった。
およそ、私が生まれた頃に出版された本で、切支丹にまつわる郷土史研究家の著述が載っていた。その中で、特に注目したのが、「津軽の切支丹(松野武雄)」だった。それまで、断片的な事しか知らなかったので、津軽の切支丹に関してまとまって書いてあったので、随分助かった。
翌年も、この”黙想の家”を訪れ、重要な部分を手帳に書き写した。それでも時間が足りなく帰宅後、国会図書館に数回通って、更に読み込み、メモを取った。
すると、私の意識化に沸々と湧き出すイメージがあった。それが現在の「無名の殉教者」に繋がった。
- 切支丹たちが弾圧を避けて逃げ惑い、やがて津軽を約束の地として目指す。
- 津軽に到来した切支丹と既に来ていた浪人たちとの衝突と和解、そして殉教・・・
- 切支丹類族も一人もいなくなり、切支丹弾圧も過去の出来事になった頃、キリストの受難を体現するするよーな義民の出現して・・・
この書籍は、色々なインスピレーションを与えてくれたが、私には文才が無いので、どーにも話がまとまらない。
お酒でも入れば、語るのは得意なのだが・・・
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