ここでは、私がこの物語の資料の内容を紹介します。
1960年5月発刊「切支丹風土記・東日本編」
「津軽の切支丹」 松野武雄著
年 号 | 西 暦 | 事 件 |
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文禄年間 | 1592~ 95 |
堀越城下で切支丹武士を不仲の武士が殺害する事件が発生した。津軽為信は犯人捕縛に人を出すが、取り逃がしている。 |
慶長元年 | 1596 | 津軽為信の次男信堅,三男信牧受洗 |
慶長19年 | 1614 | 加賀・京都から流罪者71人を受け入れる。 備前安芸領主浮田秀家家中の多くは鬼沢村に住み着いた。そのため、一時期鬼沢村は備前村と呼ばれたことがあった。また、城下には備前町があり秀家の家臣が召抱えられていた。ほかには備前屋の屋号を持つ商家があった。 |
慶長19~ 20年 |
1614~ 15 |
この頃、大飢饉がおこる。 ジェロニモ神父、アンジェリス神父が弘前を訪れている。 |
元和2年 11月26日 |
1616 | マチヤス勘蔵ほか男女合わせて6人を新たな改宗者を出した咎で処刑された。背に死刑を記した小旗を背負わせ、駄馬に乗せさらし者にした。少しでも苦しみを長引かせるために8時に始まり10時に至った。目撃した仏教とは感動して神として礼拝したと言う。 |
元和3年 | 1617 | ディエゴ結城神父が弘前を訪れている。この時、京都より持参した義捐金を配分した。当時、5団体の信徒組織があり、2団体は流入してきた切支丹信徒、3団体は土着の者の改宗者であった。 |
元和4年 | 1618 | 寺請け制度の開始。 |
元和5年夏 | 1619 | イエズス会カルバリオ神父が弘前を訪れている。この時、坑夫として秋田に入り、15日間滞在した。その後、商人を装って和田勘右衛門と名乗り、従者の日本人イルマンは板屋善兵衛と名乗った。18日間弘前に留まった。 |
元和7年 | 1621 | カルバリオ神父再び弘前を訪れる。この時、京・大阪・越前・越中・能登・加賀などの出身の信徒たちとなつかしそうに再会を果たす。彼らの住居は岩木村方面、大光寺方面、目屋方面、海岸部では半農半漁であった。また、多数の流入信徒は尾太金山や虹貝金山で坑夫として働く者が多かった。カルバリオ神父は碇ヶ関の関を切支丹役人の計らいで無事通過する。 |
寛永2年 12月27日 |
1625 | 大和の人トマス助左衛門は小姓を改宗させた咎により火あぶりになる。小姓はイエスの名を唱えながら斬首になった。死骸は信徒たちが持ち帰った。 |
寛永3年 1月10日 |
1626 | 播磨の人イグナチオ茂左衛門は弘前で求めた妻を改宗させた咎により火刑となる。猛烈な吹雪が処刑の間だけ止み、その後再び吹雪となった。 |
寛永3年 1月11日 |
1626 | 切支丹になりすましていた丹下豊後と名乗る浪人を捕縛する。江戸浅草前旅宿の亀屋で女巡礼笹川おせん母娘を斬殺し、金品を奪い逃走中であった。 慶長11年(1606)3月9日に信州巻田で笹川兼六と申す浪人を口論の末に斬殺。兼六の母娘は巡礼者に身をやつし仇討ちに出たが、浅草で返り討ちになる。次の娘が仇討ちのため巡礼者になっており、この娘が本懐を遂げた。豊後一家は財産没収追放となった。 |
寛永7年6月 | 1630 | ばてれん門徒停止令発布。 |
寛永15年 | 1638 | 弘前で切支丹73人処刑。 |
寛文4年4月 | 1664 | 五人組発足。 |
寛文5年 1月6日 |
1665 | 流入者の取り締まり開始。 |
宝暦5年 | 1755 | 津軽大光寺組、切支丹人別改帳の記載。男女3,762人中、切支丹3,163人。その他595人。 |
嘉永6年 10月19日 |
1853 | 藩士芳賀善蔵が市内新寺町十一面観音堂に自らがマリア観音に礼拝する絵馬を奉納している。 |