2017年2月28日火曜日

無名の殉教者 - 傍証


ここでは、私がこの物語の資料の内容を紹介します。

1960年5月発刊「切支丹風土記・東日本編」
「津軽の切支丹」 松野武雄著


年  号 西 暦 事    件
文禄年間 1592~
    95
 堀越城下で切支丹武士を不仲の武士が殺害する事件が発生した。津軽為信は犯人捕縛に人を出すが、取り逃がしている。
慶長元年 1596  津軽為信の次男信堅,三男信牧受洗
慶長19年 1614  加賀・京都から流罪者71人を受け入れる。
 備前安芸領主浮田秀家家中の多くは鬼沢村に住み着いた。そのため、一時期鬼沢村は備前村と呼ばれたことがあった。また、城下には備前町があり秀家の家臣が召抱えられていた。ほかには備前屋の屋号を持つ商家があった。
慶長19~
    20年
1614~
    15
 この頃、大飢饉がおこる。
 ジェロニモ神父、アンジェリス神父が弘前を訪れている。
元和2年
11月26日
1616  マチヤス勘蔵ほか男女合わせて6人を新たな改宗者を出した咎で処刑された。背に死刑を記した小旗を背負わせ、駄馬に乗せさらし者にした。少しでも苦しみを長引かせるために8時に始まり10時に至った。目撃した仏教とは感動して神として礼拝したと言う。
元和3年 1617  ディエゴ結城神父が弘前を訪れている。この時、京都より持参した義捐金を配分した。当時、5団体の信徒組織があり、2団体は流入してきた切支丹信徒、3団体は土着の者の改宗者であった。
元和4年 1618  寺請け制度の開始。
元和5年夏 1619  イエズス会カルバリオ神父が弘前を訪れている。この時、坑夫として秋田に入り、15日間滞在した。その後、商人を装って和田勘右衛門と名乗り、従者の日本人イルマンは板屋善兵衛と名乗った。18日間弘前に留まった。
元和7年 1621  カルバリオ神父再び弘前を訪れる。この時、京・大阪・越前・越中・能登・加賀などの出身の信徒たちとなつかしそうに再会を果たす。彼らの住居は岩木村方面、大光寺方面、目屋方面、海岸部では半農半漁であった。また、多数の流入信徒は尾太金山や虹貝金山で坑夫として働く者が多かった。カルバリオ神父は碇ヶ関の関を切支丹役人の計らいで無事通過する。
寛永2年
12月27日
1625  大和の人トマス助左衛門は小姓を改宗させた咎により火あぶりになる。小姓はイエスの名を唱えながら斬首になった。死骸は信徒たちが持ち帰った。
寛永3年
1月10日
1626  播磨の人イグナチオ茂左衛門は弘前で求めた妻を改宗させた咎により火刑となる。猛烈な吹雪が処刑の間だけ止み、その後再び吹雪となった。
寛永3年
1月11日
1626  切支丹になりすましていた丹下豊後と名乗る浪人を捕縛する。江戸浅草前旅宿の亀屋で女巡礼笹川おせん母娘を斬殺し、金品を奪い逃走中であった。
 慶長11年(1606)3月9日に信州巻田で笹川兼六と申す浪人を口論の末に斬殺。兼六の母娘は巡礼者に身をやつし仇討ちに出たが、浅草で返り討ちになる。次の娘が仇討ちのため巡礼者になっており、この娘が本懐を遂げた。豊後一家は財産没収追放となった。
寛永7年6月 1630  ばてれん門徒停止令発布。
寛永15年 1638  弘前で切支丹73人処刑。
寛文4年4月 1664  五人組発足。
寛文5年
1月6日
1665  流入者の取り締まり開始。
宝暦5年 1755  津軽大光寺組、切支丹人別改帳の記載。男女3,762人中、切支丹3,163人。その他595人。
嘉永6年
10月19日
1853  藩士芳賀善蔵が市内新寺町十一面観音堂に自らがマリア観音に礼拝する絵馬を奉納している。

2017年2月27日月曜日

無名の殉教者 - 第2部「殉教遍」:磯畠


 津軽を安住の地として選んだ切支丹たちであったが、開墾が成功するとその土地は藩に没収され更にきびしい土地があてがわれた。それでも、営々と切支丹たちは黙して荒地を耕し続けた。慣れない農作業の過労がたたって病に倒れる者も少なくなかった。しかし、彼らの結束は、固かった。
 切支丹が追われた開墾地に新たに入植した者たちは、その美田を維持できなかった。瞬く間に荒田となった。役人たちは訝しく思った。

 結局切支丹でなければ開墾地の田畑は維持できないと、藩では結論を出した。そのため、後からやってきた入植者と切支丹が同じ村に共存することになった。
 切支丹は不平や不満を漏らさず一途に働いた。それは役人の監視の有無によらなかった。だが、新参の入植者は役人の目を盗んでは怠業していた。宗旨の異なる切支丹の近くにいるだけで気味が悪く不愉快なためであった。そのため、切支丹が耕した田畑をすべて耶蘇畑と呼んで忌み嫌っていた。

 やがて、耶蘇畑(ヤソ畑)が磯畠と呼ばれるようになった。

 私の研究では、ヤソ畑と思われる候補地の一つは、現在では弘前市になっていますが、旧岩木町葛原の四ツ谷地域と思われます。

2017年2月26日日曜日

無名の殉教者 - 第1部と第2部をつなぐ物語

 第1部は逃避行をして津軽にたどり着き、定住するまで描く。
 そして、第1部の終わりに既に定住している避難民との衝突、和解の物語が展開する。
 この流れが、第2部に引き継がれる。

 先来の定住者たちは、関が原の合戦で敗れた西軍の武将一族だった。身分の高いものは、津軽家家臣となっていたが、陪臣以下は川岸の小高い丘に集落を形成していた。
 到来した切支丹は、川岸の低い土地に集落を作ったが、すぐに川の増水で押し流された。切り丹たちも、高台に移転したかった。だが、ぎりぎりのところで軒を寄せるように暮らした。

 やがて未曾有の大洪水が起こった。切支丹たちの集落は跡形も無く流された。切支丹たちは、先来の定住者がいる集落に身を寄せていたが、川の水は更に水位をあげ、その集落にも肉薄した。

「竹は無いか?」
「ここは、北方辺境の地ゆえ、孟宗竹は生えぬ!」
「根曲竹ならある!」
「それもいい。その竹で、籠を編むのだ!」
「籠を・・・」
蛇籠だ。それに砕石を詰めて、川岸を固めるのだ!」


 一同の者、知恵を出し合い、力を合わせて集落を守った。そして、三日目の朝、雨は止んだ。川は人々が作った蛇籠を越えることはなかった。やがて、見る見るうちに川の水位は下がっていった。
 従事した一同は疲れ果てていた。眩い朝日が閃光のように差し込むと、彼らの汗が湯気になって立ち登っていた。背中いっぱいに朝日を浴びながらよろよろと立ち上がる若者がいた。彼は指差して言った。


「見よ!」
「おお!」



 岩木山に大きな虹がかかっていたのだった。従事した一同銘々それぞれの宗旨で感謝の祈りを捧げた。山に向かって土下座する者、虹に向かい十字を切る者、朝日に手を合わせる者がいた。そして、お互いの労をねぎらった。

 この一件以来反目していた先来の定住者たちと、新参の切支丹との間でお互いに和解し、協力していく約束がとり交わされた。人々が一致して協力しなければ、自然の猛威はいともたやすく人々の生活を奪うことをそれぞれに知った。それは、お互いに反目すること自体が恵まれた状況で、この土地ではそれすら与えられないほどに貧しいことに気づいたからであった。

2017年2月25日土曜日

無名の殉教者 - 第1部が脱出編なのか






 弾圧の追っ手を逃れて、約束の地・津軽を目指す逃避行を描こうと思った。
 モチーフはもちろん、旧約聖書にある出エジプト記である。

 全国規模で切り丹が弾圧される中、切支丹の領主が治める土地が北方辺境の津軽にある!
 そこに行けば、土地や家を与えられ信仰が約束されている・・・
 その思いだけが、切り丹たちを津軽へと、駆り立てた。

 追っ手に追われ海岸線に追い詰められた時、突然の地震で引き波が発生し、遠浅の海を歩いて渡ることができた。すると間もなく、返しの波が追っ手に襲いかかり、飲み込まれてしまった。
 また、山中で方向を見失うと、一陣の風と共に蚊柱が現れ、逃避行する切支丹一行を先導した。

 モーセに相当するのが、古参の信徒である老女であり、岩木山が見えるところまでたどり着いて、息絶えてしまう。
 そして、ヨシュアに相当するは、老人たちの面倒を良く見ていた青年である。

 津軽に到着した切支丹たちは、堀越城(後には弘前城)に出頭し、藩と盟約を結ぶことで定住が許された。
 それは、切支丹信徒を増やさないことであった。信仰を認められるのは、現世代の一代限りとし、津軽で生まれた世代を切支丹にしてはならなかった。
 切支丹たちは、その制約もやがて解除されることを信じ、盟約を結び密やかに信仰を続ける覚悟をした。

 さて、切支丹たちに与えられた土地は、岩木川の左岸、地味は濃いが、荒れ放題で茫漠としていた。
 まず、切支丹たちは流木を集め、雨露をしのぐ小屋を建てた。井戸はなく、川の水を飲んだ。
 初めは、弘前城の築城に従事し、幾重にも分流する岩木川の流れを整えた。これは集落を川から守る意味もあった。
 やがて、藩からお触れが出た。岩木川の氾濫を防いで新たに出来た土地は、農地として所有できると・・・

2017年2月24日金曜日

「ふくね湯繁盛記」・イラン人キリスト者






 「ふくね湯繁盛記」に登場するイラン人キリスト者の元ネタは、小田原市在住の元上司殿の知り合いにイラン人がいまして・・・
 このイラン人が、たまたまネストリウス派のキリスト教と言われているアッシリア東方教会の信者だったのだ。
 更に面白いことに、元上司殿、小田原市内のおでんの屋台でお酒を呑んでいるところに、このイラン人がやってきて大いに盛り上がったと言う。
 このイラン人、イスラム教徒ではないので、酒は呑むし、おでんの蛸も食べて、実に付き合いの良い青年だったらしい。

 そこで、イラン人キリスト者を登場させ、物語の流れの変化を与えよーと思った。

2017年2月23日木曜日

無名の殉教者 - 第1部・脱出編(天の巻):メモ1

 今の神奈川県横須賀辺りの切支丹、領主の弾圧を受けて江戸・浅草の病院に身を寄せていた。
 やがてその病院も幕府の命令により取り壊しになった。
 切支丹たちは、一縷の望みを託して、古参の信徒である老婆を指導者に仰ぎ、北方辺境の地・津軽を目指した。
 度重なる困難にも、奇跡的に乗り越える中、ある山中で若者に打ち捨てられたと言う老人と遭遇した。
 老人は、同行させて欲しいと懇願した。同行者は皆、見捨てるべきと言う中、指導的立場にあるその老婆は、同行を許可する。






 老婆は言う・・・

「我ら切支丹信徒は、行く先々で同心の者たちの助けを頼りにしている。
 もし、疑われることがあれば、我ら一同、捕らえられることは、必定である。
 その方も、われら同様にオラショを覚え、唱えることを誓うか?」


「はて、オラショとは、何ぞ?」

「オラショなるは、祈りのこと。」


「それは、たやすきこと。それを覚え、唱えれば、助けてくれるか?」


「相分かった。その方、ポロシモとして同行を許す。」

 一向は津軽に入り、岩木山が見えるところまで達した。ただ、その老婆は、それまでの疲労で息を引き取った。
 同行を許された老人は、足腰が不自由だと言っていたのに、その場に立ち上がった。嘘をついていたのだった。

 弘前に着いた一行は、岩木川の改修工事に従事して、弘前城にほど近い場所に集落を形成した。
 連れて来られた老人は、力仕事もできず、食事の仕度をする仕事をどーにかしていた。
 それでも、自分の娘ほど年の離れた地元の女を嫁に向かえ、子供にも恵まれた。
 しかし、その老人も最期を迎えた。幼い子供を残して死んでいくのに未練があった。
 それまでの、自らの行いを悔いた。
 そして、苦楽を共にした仲間たちに囲まれて死んでいった。安らかであった。

2017年2月22日水曜日

「ふくね湯繁盛記」の元ネタ






 かなり昔、NHKの番組で取り上げていたのだが・・・
 大昔は、周囲に田んぼしかない場所に銭湯を作り、親族が銭湯を囲むように洋品店や美容院、飲食店などの商店を次々と建て、やがて商店街を形成するまでになった。
 これが今となっては、いくら探してもどこのことなのかさっぱり分からない。一体、どこの銭湯と商店街のことだったのやら(^^?)

2017年2月21日火曜日

なぜ『無名の殉教者』の出発地が横須賀なのか?

 1979年当時、横須賀にいる遠縁の親戚を訪ねて衣笠駅まで行ったことがあった。途中通過した駅に目を見張った!
 その駅は、田浦駅だった!
 祖父の代から住んでいた我が家のあった場所なのだが、弘前市の町名変更で失われた「字(あざ)が同じ「田浦」なのだ!!
 その後、黙想会で訪れた「黙想の家」の図書資料室で発見した「切支丹風土記・東日本編」に三浦半島の切支丹の記述があった。この出来事こそ、『無名の殉教者』の着想の原点なのだ。


2017年2月20日月曜日

『無名の殉教者』の構成

 長い時の間に、表現の揺らぎがあったり、メモの欠落があったりと・・・
 ちゃんと記録に残さなければと、痛切に思う今日この頃であった(^^;)

 切支丹の世紀を語る上で、以前から私が抱いていた感じでは、弾圧される側と弾圧する側の視点しか有していないことの不自然さ・・・
 いたであろう多数の傍観者たちの描写が欠落している。まぁ、物語の性格上、2点に絞り込むことで対比を引き立てる効果があるのでしょうね。

 さて、ここ津軽、とりわけ弘前の地は、弾圧を逃れてきた切支丹が多数いた。京都や加賀から流罪になった切支丹71名以降、遠くは長崎からも逃げてきた切支丹がいた。
 既に関が原の合戦で戦いで敗れた人たちも逃げてきていた。弘前藩では、この人たちを使って弘前城を建て、岩木川を改修した。更には、農業用水路を津軽半島に延伸して、後の米の増収に貢献した。
 恐らくは、彼らは出身母体ごとに集落を形成していただろうが、小さい集団では、津軽の厳しい自然に太刀打ちできず、過去の恩讐を越えて結束していったのではないかと・・・
 やがて、ここ弘前でも切支丹の弾圧があった。そこは、弘前城からも近く、改修工事を行った岩木川のほとり、現在の聖母被昇天修道会の弘前修道院がある辺りが、切支丹の処刑場だった。
 3組の夫婦6人が磔になった。この処刑を涙して見送った人々がいた。切支丹では、無かった。苦楽を共にした仲間。切支丹側から言えば異教徒たちだった。

 私は切支丹ではないが、彼らに寄り添う人々の視線から物語を描きたい。
 それが、私が得た着想「無名の殉教者」なのだ。三部で構成されている。


第1部・脱出(天の巻)
 弾圧を逃れて津軽を目指す切支丹一行を、途中の山中で拾われ同行することになった老人の目を通して物語りは進む。

第2部・殉教編(地の巻)

 いがみ合いながらも共存していく、切支丹と前来の避難民。そして、異教徒の友を救うために、殉教する切支丹・・・
 信濃で殺人を犯した男が、逃避行する切支丹に紛れ込んで、弘前まで来ていた。切支丹として捕縛された男は、正体を明かした。そのため、信濃からこの男を討つために殺された人の娘が弘前まできて、本懐を遂げた。
 模範的信者を装い続けたこの男の目を通して、語ることになる。

第3部・復活編(人の巻)

 一人の切支丹、類族もいなくなったかつての切支丹集落。一人の若者が、農民を救うために立ち上がったが、仲間の裏切りによって処刑される。
 だが、若者の訴えは聞き入られ、後の世まで農民を救済することになる。
 そして、弾圧者だった藩の役人の子孫が、牧師となる。

2017年2月19日日曜日

ざくっと「ふくね湯繁盛記」


 遠藤周作氏は、未発表の作品の構想にヨブ記をモチーフにしていたとか・・・
 だけど、発表されず仕舞いだった。
 私も同じようにヨブ記をモチーフにして、物語を描きたい。

 戦後、復員してきた男は、進駐軍から払い下げになったドラム缶で銭湯を始めた。
 やがて本格的な銭湯になり、子供たちがその銭湯を中心に飲食店や衣料店始め、商店街を形成していった。

 この男、ドラム缶を入手すべく進駐軍と交渉を成功した帰り、銭湯の名前を考えていた。ふと傍らに、かまぼこ型兵舎を利用したキリスト教の教会があった。

「○×△福音教会」

 だが、この男、福音をふくねだと思った。そこで、銭湯をふくね湯と名づけて営業した。
 本来は、初音湯にするつもりだったが、福々しい感じがするので、「ふくね湯」で押し通した。

 色々な人々がその銭湯にやってきた。
 銭湯好きなフランス人のガストン・ボナパルト氏、イラン人キリスト者のユセフ君・・・

 このユセフ君は、この男に気に入られペルシャ語講座を銭湯で開くまでになっていた。
 ところが、ユセフ君、アラブ人テロリストに狙われていた。

 不審火でふくね湯を始め商店街は、全焼した。この男の家族も何人か亡くなった。
 そして、この男も重い火傷を負い伏せることに・・・
 古くからの友が訪ね、この男の落ち度を探る。奥さんも、この男を見捨てようとする。

 やがて、この男の孫、ユセフ君を支えるボランティアの若者たちが、銭湯を復活させ、かつての商店街に賑わいを取り戻す。

 この男、ひ孫に囲まれそれまでの人生を振り返る・・・

 ちなみに、ユセフ君の彼女で後に奥さんになるのが、ミリアムさんで、間に生まれた男の子はイーサー君!!
 そ! ユセフ君の職業は建設業関連だけど、解体屋(^o^)/

「無名の殉教者」没ネタ






 戦場で幼馴染を殺したことを悔いて「友塚」を建立する話を入れよーと思ったが、そんなセンチメンタルな話は、無用!
 現実は、厳しいと思うよ(^^;)/

「無名の殉教者」没稿

岩木山に沈む夕日


 当初、長崎から東京に来たカトリック信者の大学生から物語を描こうと思ったけど、時空を行ったり来たりするのが大変なのでやめた。
 長崎と東京のカトリック教会の空気感の違いを発端に、物語を展開しよーかと思ったけど、話が間延びしそーだった。
 まっ、それよりも、しっかりした取材でもしないと描けないと思ったね(^^;)

 ちなみに、この学生の名は、「中田」で、津軽の切支丹研究家の名も「中田」だった。
 でも実際には、中田姓の切支丹は伊勢系の切支丹類族で、現在の弘前市土手町に住んでいた長助・はる夫妻が記録に残っていたのだが・・・
 手元の資料がみつからない(^^;)

 このアイディアのきっかけは、神奈川在住の頃、弘前に帰省する際、バスで盛岡駅から弘前に向かう途中、弘前大鰐ICに差し掛かった辺りで、電話がかかってきたことだった。
 丁度、岩木山が奇麗に見えたので、このコースを辿るよーにできないかと思ったのだけど・・・
 まっ、話の展開が難しいね(^_^;)/

2017年2月18日土曜日

『物語の館』が始まります

 自宅のサーバで細々とブログをやっていたのですが、予備サーバが壊れてしまい、稼動するサーバが1台となって心もとない状態になってしまった。
 そこで、外部のブログサービスを利用することにしました。
 これまで長年構想を練ってきた「無名の殉教者」「ふくね湯繁盛記」に関して思いついた断片をここ「物語の館」に載せていこーかと思います。