2017年2月27日月曜日

無名の殉教者 - 第2部「殉教遍」:磯畠


 津軽を安住の地として選んだ切支丹たちであったが、開墾が成功するとその土地は藩に没収され更にきびしい土地があてがわれた。それでも、営々と切支丹たちは黙して荒地を耕し続けた。慣れない農作業の過労がたたって病に倒れる者も少なくなかった。しかし、彼らの結束は、固かった。
 切支丹が追われた開墾地に新たに入植した者たちは、その美田を維持できなかった。瞬く間に荒田となった。役人たちは訝しく思った。

 結局切支丹でなければ開墾地の田畑は維持できないと、藩では結論を出した。そのため、後からやってきた入植者と切支丹が同じ村に共存することになった。
 切支丹は不平や不満を漏らさず一途に働いた。それは役人の監視の有無によらなかった。だが、新参の入植者は役人の目を盗んでは怠業していた。宗旨の異なる切支丹の近くにいるだけで気味が悪く不愉快なためであった。そのため、切支丹が耕した田畑をすべて耶蘇畑と呼んで忌み嫌っていた。

 やがて、耶蘇畑(ヤソ畑)が磯畠と呼ばれるようになった。

 私の研究では、ヤソ畑と思われる候補地の一つは、現在では弘前市になっていますが、旧岩木町葛原の四ツ谷地域と思われます。

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