私には著作物をまとめるだけの才能が無いので、長年の構想をブログの形で載せます。 古くはシャープのワープロ・書院で書いていた。それもDOSファイルに変換したものの、フロッピーディスクが散逸してしまった。 自宅サーバでホームページやブログで載せたが、予備サーバが壊れてしまい、いつまで現状を維持できるかわからない。 そこで、外部のブログサービスを利用して残すことにした。
2017年4月9日日曜日
無名の殉教者 - 逃避行のルート
三浦半島の田浦の地から逃避行を始める一行の頭領の名を、モニカにしていたけど、マルタにします。こっちの方が日本語っぽい語感があるのでね(^^;)/
この頭領が亡くなって埋葬された地が、マルタ塚->丸田塚->丸田森->丸太森と変遷すると、後々ストーリー展開に使えるかな(^^?)
三浦半島から江戸・浅草を経由して津軽に至る経路を考えないといけない(^^;)
まぁ、立ち寄りそーな場所は、仙台と水沢くらいしか思いつかない。当時は、日光街道が整備の始まっていないけど、日光街道の元になった古奥羽街道はあったはずなので、今の日光街沿いに北に向かうのだが、追っ手に追われて太平洋側に出たところで、巨大地震に遭遇する。その後、引き波で海底が露出した場所を通って対岸に渡る。
あと、どこで老人を拾うかだけど、浅草を立って間もなくとすると、日光街道のわき道なのかな(^^?)
それに、どこかで燃える柴にも、遭遇しないとね(^^;)
こりゃ、ルートの選定は中々難しい(^^;)/
2017年4月8日土曜日
無名の殉教者 - 失われた説教の断片
ペテロ岐部神父同席の元、善造が切支丹信徒に向かって最後の説教を話す場面があったのだが・・・
あれは、ノートワープロに書き溜めてあった文書だった。その後、DOSファイルに変換してフロッピーディスクで保管していたが、引越の際に散逸してしまったらしい。
記憶を辿れば・・・
幕府から切支丹弾圧のノルマを課せられた弘前藩、下役の佐々木が善造に全てを打ち明けると、自分が進んで処刑されると善造が申し出る。慌てる佐々木。
後日、今生の別れに佐々木が酒を持って、善造を訪ねる。善造が佐々木に弱音を吐く。嘲笑しろと、佐々木に迫る善造。なだめる佐々木を振り切って外に出る善造。
そして、最後の説教。
私は信じる教えに従って、同信の者、友なる者の助けになるなら、この命を我が信じる神なるデウスにお返しするだけのこと。
皆の者、私は一足早くパライソに赴くだけだ。先に行って、待っているぞ!
ん~、もっとあったよーだけど、思い出せない(^^;)
思い出し次第載せますね(^^;)/
2017年4月7日金曜日
無名の殉教者 - 慶長大地震
慶長年間って、大地震(慶長大地震)が頻発していたらしい。その中でも”慶長三陸地震”は甚大な被害を出している。この震災からの復興事業の一環として”慶長遣欧使節”が派遣されたとも言われている。
だけどこの地震は、慶長十六年十月二十八日(1611年10月28日)なので、浅草教会の取り壊しが慶長十八年(1613)となり後になってしまう。
すると”慶長十九年十月二十五日の地震”が、かなり絶妙な感じ。西暦で言えば、1614年11月26日で、浅草教会の取り壊しのあとに起きている。更に、震源が日本海側(現在の新潟県)にもかかわらず、太平洋側の銚子でも津波が観測されている。恐らくは、複数の地震が連動して発生したのぢゃないかな(^^?)
この線で、物語を構築しなければ(^_^;)/
2017年4月6日木曜日
無名の殉教者 - 丹下豊後改め丹下文吾
どーもこの記録は、口伝されていた話を書き留めたものらしく、年号が誤っていたり色々と誤りがあるらしい。
ってことで、ほぼ原文を引用してみる。
此度切支丹之者共十一人引捕へ、牢屋に押込置候之処、今日於御會所御評定有之候。然に右十一人之中に丹下豊後と申浪人御座候而、此者は江戸表、浅草前亀屋と申宿にて笹川おせんと申順礼切殺候事、本人所持之品々中より及露見、段々取調之処、逐一白状致申立候は、去る慶長十一年午年三月九日信州巻田と申所にて公論之末、笹川兼六と申浪人を切殺候。依之其妻子之者仇討之為順礼となり、相尋居候砌、浅草亀屋と申宿にて右の順礼も切殺候へは、其子又々順礼致相尋居候趣申立候。依之右之者共は不残死罪可為致之処、右之状々御公儀に申達、御伺申遣之間、御返事下着迄右之浪人牢屋に入置様申付候。この中で、名前の”豊後”は、ちょっとおかしい。”文吾”ぢゃないのかな(^^?)
右に付残之十人は死罪申渡候様、被仰付候。依之死罪之者共は家財不残妻子之与、御国払申付候。右申渡之趣申入候。
恐惶謹言寛永三寅年正月十一日
津軽越中守御大老中
”公論”って、これは書き写した人の誤りかな。”口論”だよね(^^;)
それから、信州に”巻田”って地名は見当たらない。そこで、”マキタ”か”マイタ”で探してみたらあった。上田市に”舞田”って言う地名がありました。ひょっとしら、ここなのかな(^^?)
ご存知の方は、信州の巻田を御教示下さい(_"_)
閑話休題。
読み下し文は、こんな感じなのかな。
このたび切支丹の者共十一人引き捕らへ、牢屋に押し込め置き候のところ、今日において御会所御評定有りとの候。しかるに右十一人の中に丹下豊後と申す浪人御座候に、この者は江戸表、浅草前亀屋と申す宿にて笹川おせんと申す巡礼を切り殺し候こと、本人所持の品々より露見におよび、段々取調べ候のところ、逐一白状致し申し立て候は、さる慶長十一年午年三月九日信州巻田と申す所にて口論の末、笹川兼六と申す浪人を切り殺し候。これによりて妻子の者仇討ちのため順礼となり、あいたずねおり候みぎり、浅草亀屋と申す宿にて右の順礼も切り殺し候へば、その子又々順礼あいたずねおり候おもむき申し立て候。これによりて右の者共は残らず死罪致すべく処、右の状々御公儀に申し達っし、御伺い申し遣いの間、御返事下着まで右の浪人牢屋に入り置き申し付け候。亀屋で笹川おせん母娘を惨殺した時期は不明だけど、慶長十一年(1606)からそんなに時間が経っていないとすると、慶長十八年(1613)の浅草教会が取り壊された時期と重なってくる。
右に残らず十人は死罪申し渡し候のよう、仰せ付けられ候。これにより死罪の者共は妻子にあたえ、御国払い申し付け候。右申し渡しのおもむき申し入り候。
恐惶謹言寛永三寅年正月十一日
津軽越中守御大老中
直接、教会の取り壊しを目撃していないまでも、取り壊しによって行き場を失った切支丹と行動を共にした可能性はあるのかな。
さうさう、海が割れる場面は無いけど、津波の引き波で海底が露出することはあると思うので、該当する地震や津波が無いか調査せねば(^^;)/
2017年4月5日水曜日
無名の殉教者 - 江戸幕府が禁止しても津軽に残った
直接物語には関係しないけど、周辺調査ってことで(^_^;)/
江戸時代、幕府がキリスト教並みに禁止したのが、トランプによるカードゲームだったのです。
意外かも知れませんが、当時のカードゲームは賭博だったので、儒教を精神的支柱としていた幕府にとって、労働の妨げになる賭博は、まかりならないのです。
時代劇では、よく半丁賭博がよく出てきて、取り締まり対象になっている場面を見たことがあると思う。
だが、江戸時代の初めごろは、カードゲームが賭博の代表格で、徹底的に取り締まったものらしいです。
そこで、カードから数字が無くなり、絵札ばかりの花札が生まれたのだそうです。
てな感じで、権力者によって弾圧され、取り締まり対象のカードゲームが、津軽には”ゴニンカン”として残った。
まぁ、北方辺境の地ってこともあって、徹底されていなかったと言えば、それまでだけど・・・
この”ゴニンカン”は、岩木川の中流域から下流域で盛んで、五所川原市では毎年「ゴニンカントランプ世界選手権大会」が開催されています。
我が家では、親父殿の代まで”ゴニンカン”をやっていました。親父殿は、会社や町内会でやって、たまに勝つと大好きな寿司を一人で食べていたとか・・・
爺様に至っては、”ゴニンカン”で、負けてばかりだったらしい。でも、隣の爺様は、勝ったお金を元手にコンクリート製の流し台を作って売り、儲けたお金で建設会社を作ってしまった。
てなことで、我が家にはあまり良くない”ゴニンカン”を、私は全くやる機会が無くて、ほとんど分からない(^^;)
閑話休題。
弘前藩による徹底した監視と弾圧で、切支丹信徒を根絶することに成功した。
だけど、農閑期にひっそりと行われていた御禁制のカードゲーム”ゴニンカン”は、残ることになってしまった。
恐らくは、諸国をさすらう浪人や切支丹が伝えたカードゲームが、”ゴニンカン”として残りながら、伝えた人のことは何も残っていない。
歴史の皮肉なのだろうか・・・
2017年4月4日火曜日
無名の殉教者 - 津軽に押し寄せた切支丹
高照神社文化財の解説員をされている小嶋義憲氏によれば、高照神社が文化財に指定されてから収蔵品の修復作業で、屏風の下張りから大量の古文書が出てきたそうです。そのいずれもが、切支丹に関するものばかりだったらしいです。
大挙してくる切支丹の対応を幕府に相談する内容の下書きが、下張りに使われたらしい。
それほど多くいた切支丹なのに、類族はわずか4系統?
京都や加賀の切支丹を流人として受け入れた弘前藩、一般住民との接触を避けるため、わりと山間地の鬼沢村に収監したらしい。ただ、優秀な人材もあったらしく、一部の者は藩に出仕して、屋敷も与えられたようだ。その屋敷があった場所が備前町(今の白銀町辺り)と呼ばれたらしい。また、商売をする者も現れ、屋号を備前屋とした。
ところが、藩が恐れていた事態が起きた。一代限りの切支丹信仰を許す代わりに、親族を含めた一切の布教活動の禁止を誓約させたにもかかわらず、城下に新たな切支丹信徒が誕生していた。
藩は、誓約の不履行を咎め切支丹信徒の中心的6名3組の夫婦を、岩木川原で処刑した。一般的に処刑は、見せしめのために行われるため、取り締まり対象者が多い場所に刑場を作ったと思われる。
すると、その対岸に切支丹の村が、あったものと思われる。現在の富士見橋周辺は、弘前城ができた頃は、岩木川が幾重にも枝分かれして流れていた。その流れを下流側で一本の流れにしたのが、富士見橋辺りだった。
実際には、村と言うよりも、最初は石垣用の石材を荷揚げする場所があって、事務所と兼用する炊き出し用の小さな小屋があったのかな。後に、河川改修工事で多くの人夫が働くようになると、小さな集落を形成していたのではないかと思われる。
また、富士見橋を渡ってまっすぐ数キロ行くと、切支丹が収監されていた鬼沢村がある。
一体、どのくらいの切支丹がやって来たのか?
それほど多くは無いと思う。実際には、主君を失ったり、領地を没収されて浪人なった人の方が、はるかに多かったはず。ただ、切支丹は取り締まり対象だったために、多くの文書が残ることになったと思われる。
すると、ざくっと三百人前後の切支丹と倍の六百人程度の浪人で、千人規模の人々がわずか数年のうちに、弘前城下にやって来ていた。
藩では、前例に鑑みて、城下に留め置くと何かとトラブルが多いので、城下に溢れていた浪人と切支丹を、城下から遠い岩木川下流域の開拓に送り込んだのではないか。
藩としては、特に厄介者の切支丹を城下から引き離し、旨く行けば新田開発にもつながるとでも、考えたのかな。
だが、一つの集落当たり数十人規模で5~6箇所に派遣された切支丹と浪人たちは、当座の食料と農具を与えられただけで、岩木川の下流域の治水工事に従事したが、あまりにも困難を極めた。
現状を訴えるために、城下に上った者のうち、切支丹だけが処罰の対象になった。切支丹信徒であることを見逃してもらっていた温情に背いたと、藩では思ったのかな。
それが、最期の殉教者となった伊勢屋五左衛門だったのではないかと思う。そして、その一族が、庶民としては唯一類族として記録に残ることになったのではないか。
また、岩木川下流域に今でも見られる化粧地蔵も、この時に派遣された切支丹が初穂になったのではないかと思う。
さて、こうやって弘前にやって来た浪人や切支丹たちは、消えて無くなってしまったわけではない。
現在の弘前市は、地方都市の割りに名字の種類が多いらしい。またある意味、よそ者が集まって作った町が弘前だった側面もあり、八幡宮の祭礼が地元民の祭りなら、ねぷたは外来者が作り上げた祭りでもある。
そして何より、津軽人気質とて『じょっぱり』は、外せない。このじょっぱり精神の始まりは、岩木川下流域の新田開発にあるのではないかと思う。およそ実現不可能と思われる事に対して、ムキになって取りかかかる。もはや、パッションの何物でもないような気がしてくる。
そうやって、文物は残らなかったが、心、精神は残ったのかな。やがて時代は下って、民次郎一揆は、さながらキリストの受難の様相に見える。
藤田民次郎は、農民の窮状を訴えて処刑された義民とも違う。困窮する農民どうしで、お互いに助け合うため備蓄米を融通しようとした。
汝の敵を愛せ。
たとえ、田に引く水を巡る敵であっても、お互いを大切にしなければ、飢饉を乗り越えられない。
2017年4月3日月曜日
無名の殉教者 - 岩木川下流域の新田開発
江戸時代の岩木川下流域の新田開発に関する研究論文を見ていて気づいた。
最初から、藩を挙げての開発じゃなかった!
戦国時代が終わったばかりで、人材的にも金銭的にも大規模な新田開発はできなかった。
ところが、労働力は豊富にあった。そう、弾圧を逃れて来た切支丹や、戦で敗れて浪人に身をやつしている人が弘前に集まっていた。
そこで、藩は浪人対策として、切支丹を労働力として与え、岩木川下流域の新田開発に着手させた。もし、旨くいけば、その土地を知行地とすることができたらしい。
浪人にしてみれば、仕事があり、土地があり、更に労働力まで付いてくる。切支丹にしても、監視の目を気にせずに信仰を守ることができる。
ん~、やっぱりあの化粧地蔵は、切支丹遺物の名残なのかなぁ(^^?)
でも、世の中、そんな旨い話は無い。
労働力として与えられた切支丹は、元々農民ではなく兵農分離後の武家の出が多かったために、農業に関しては全くの素人だったはず。
新田開発に与えられた土地は、岩木川下流域の葦が生い茂る茫漠たる荒地だった。
恐らくは、数十人規模で集落を形成して、岩木川の護岸を補強したり、灌漑用水を整備しても、一度洪水が起これば簡単に押し流されてしまったはず。
今と違って、岩木川の水量も豊富だったこともあり、点のような集落では川の勢いに負けて芳しい成果は上がらなかったと思う。
藩にしてみれば、有り余る浪人と切支丹を城下から引き離し、しかも、あわよくば新田も得られる。そんな目論見だったのだろう。
その後、藩でも小規模の新田開発では、無理があると分かったらしく。組織的に新田開発に取り組むようになる。
成果が出たのは、四代藩主津軽信政公の時代になってからだった。
ちなみに、この殿様、テレビドラマの水戸黄門では、津軽の名君として度々取り上げられています。
2017年4月2日日曜日
無名の殉教者 - 井上筑後守
この文章は、井上筑後守が切支丹吟味役に就任した寛永十七年(1640)頃のものと思われる。
以下に、書き起こしてみる。
態一筆致啓上候 然は喜利丹御穿鑿之儀に付先日以便申上候処に則井上筑後守殿より蒙仰候は右之者共御地へ令差登候迄も無御座候間令此方如何にも可申付之旨御候に付右より喜利支丹之道具持之者壱人を成敗申付候相残拾人之者共弥穿鑿仕候処右之内貳人改申出候様子之儀は今度井上筑後守殿委細申達候間御披露可有之と奉存如何様にも御指図於被仰下候には忝可奉存候へぇ~、こんな所にも『沈黙 -サイレンス-』でイッセー尾形が演じていた井上筑後守が出てくるのね。
恐惶謹言
七月十八日
津軽土佐守
弘前城下にて切支丹の信心具を持つ者がいて、1人を処刑したが、残り10人ばかりのうち2人が棄教したけど、どう言った対応がいいのか? って内容かな(^^?)
年代的に言って、伊勢系の始まりに当たる伊勢屋五左衛門に関するお伺いらしい。
この人は、棄教を拒み火刑になっている。
大挙してやって来た切支丹も、初めのうちは城下近くに住まわせて、町作りに使役していたが、幕府に切支丹隠匿がばれそうになって、慌てて弘前から遠く離れた岩木川の下流域や十三湖付近を開拓させた。
だが、不慣れな土地での開墾事業は、悲惨を極めたことは、想像に難くない。その窮状を訴えに弘前に出向いた伊勢屋五左衛門が、幕府の隠密にでも見つかってはまずいと言うことで、切支丹として処刑したのではないか。
以来、一人娘の”はる”とその子孫が庶民としては唯一の類族として記録に残っている。武家が2例と、小泊村の長松系は外国から帰国しないと言うから、これは例外だと思う。
それにしても、類族が4系統しか記録が無いのは、甚だ不自然極まりない。
2017年4月1日土曜日
無名の殉教者 - 祖母の話
私の父方の祖母は、明治36年生まれだった。その祖母から聞いたことがあった。
藩政時代、津軽の殿様は、岩木山の裏はすぐに海になっていると、幕府に報告していた。
この場合、裏とは弘前から見て裏側ぢゃなくて、江戸(南)からみて裏側なので、岩木山の北側、つまり岩木川の下流域は、無いと言っていたことになる。
そこで、岩木川の河口にある十三湖が俄然重要になってくる。
そもそも、この十三がキリスト教と重要な関連がある。
”十”は、十字架を、”三”は、三位一体を表していると言う。
実際に切支丹の墓石に、十字ではなく”∴”が刻まれていることもあるそうです。
ひょっとしたら、大量に津軽に到来した切支丹を藩では、岩木川沿いに住まわせ河川改修や土壌改善に従事させたのかな。
それで、集落の名前を十三村(じゅうさんむら)としたのだろう。
十三湖には、鎌倉時代に安東氏が開いた”十三湊(とさみなと)”があるのだが、安東氏が開いた湊なら”安東湊(あんどみなと)”になりそうものだし、仮に十三と言う地名が先にありそこに安藤氏が湊を開いたら十三(とさ)氏になるものだが・・・
どうも、、安東氏が築いた居城も失われ、当時の古文書も残っていないことから、後世の歴史改ざんがあるのぢゃないかな。
十三村が鎌倉時代には、既に存在しているようにした。なぜか? そこには切支丹の村があったから・・・
すると、何度も出てくる”化粧地蔵”に十字があることや、”一本タモの木”にまつわる事跡など、切支丹の村を隠蔽した痕跡ではないかと思ってしまう。
後年の大飢饉で多数の餓死者を出したのが、岩木川の左岸地域だった。元々農民ではなかった切支丹が、暖かい地方からやって来て、荒地の開墾が軌道に乗るとも思えない。
度重なる洪水と飢饉で、投入された切支丹が全滅し、残ったのは地名と、胸に十字がある地蔵と色々な出来事を見守ってきたタモの木だけだった。
津軽では江戸時代、大飢饉のあと住民のいなくなった農村に、下級藩士の次男以下を投入したようです。
我が家の先祖も天保の飢饉の後、現在の集落に住み着いて、帰農したようです。戦国時代の終わりごろから、旧岩木町の一町田地区に居住し、それ以前は、鯵ヶ沢町の種里城周辺に居を構えていたらしい。
藩政時代、津軽の殿様は、岩木山の裏はすぐに海になっていると、幕府に報告していた。
この場合、裏とは弘前から見て裏側ぢゃなくて、江戸(南)からみて裏側なので、岩木山の北側、つまり岩木川の下流域は、無いと言っていたことになる。
そこで、岩木川の河口にある十三湖が俄然重要になってくる。
そもそも、この十三がキリスト教と重要な関連がある。
”十”は、十字架を、”三”は、三位一体を表していると言う。
実際に切支丹の墓石に、十字ではなく”∴”が刻まれていることもあるそうです。
ひょっとしたら、大量に津軽に到来した切支丹を藩では、岩木川沿いに住まわせ河川改修や土壌改善に従事させたのかな。
それで、集落の名前を十三村(じゅうさんむら)としたのだろう。
十三湖には、鎌倉時代に安東氏が開いた”十三湊(とさみなと)”があるのだが、安東氏が開いた湊なら”安東湊(あんどみなと)”になりそうものだし、仮に十三と言う地名が先にありそこに安藤氏が湊を開いたら十三(とさ)氏になるものだが・・・
どうも、、安東氏が築いた居城も失われ、当時の古文書も残っていないことから、後世の歴史改ざんがあるのぢゃないかな。
十三村が鎌倉時代には、既に存在しているようにした。なぜか? そこには切支丹の村があったから・・・
すると、何度も出てくる”化粧地蔵”に十字があることや、”一本タモの木”にまつわる事跡など、切支丹の村を隠蔽した痕跡ではないかと思ってしまう。
後年の大飢饉で多数の餓死者を出したのが、岩木川の左岸地域だった。元々農民ではなかった切支丹が、暖かい地方からやって来て、荒地の開墾が軌道に乗るとも思えない。
度重なる洪水と飢饉で、投入された切支丹が全滅し、残ったのは地名と、胸に十字がある地蔵と色々な出来事を見守ってきたタモの木だけだった。
津軽では江戸時代、大飢饉のあと住民のいなくなった農村に、下級藩士の次男以下を投入したようです。
我が家の先祖も天保の飢饉の後、現在の集落に住み着いて、帰農したようです。戦国時代の終わりごろから、旧岩木町の一町田地区に居住し、それ以前は、鯵ヶ沢町の種里城周辺に居を構えていたらしい。
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