どーもこの記録は、口伝されていた話を書き留めたものらしく、年号が誤っていたり色々と誤りがあるらしい。
ってことで、ほぼ原文を引用してみる。
此度切支丹之者共十一人引捕へ、牢屋に押込置候之処、今日於御會所御評定有之候。然に右十一人之中に丹下豊後と申浪人御座候而、此者は江戸表、浅草前亀屋と申宿にて笹川おせんと申順礼切殺候事、本人所持之品々中より及露見、段々取調之処、逐一白状致申立候は、去る慶長十一年午年三月九日信州巻田と申所にて公論之末、笹川兼六と申浪人を切殺候。依之其妻子之者仇討之為順礼となり、相尋居候砌、浅草亀屋と申宿にて右の順礼も切殺候へは、其子又々順礼致相尋居候趣申立候。依之右之者共は不残死罪可為致之処、右之状々御公儀に申達、御伺申遣之間、御返事下着迄右之浪人牢屋に入置様申付候。この中で、名前の”豊後”は、ちょっとおかしい。”文吾”ぢゃないのかな(^^?)
右に付残之十人は死罪申渡候様、被仰付候。依之死罪之者共は家財不残妻子之与、御国払申付候。右申渡之趣申入候。
恐惶謹言寛永三寅年正月十一日
津軽越中守御大老中
”公論”って、これは書き写した人の誤りかな。”口論”だよね(^^;)
それから、信州に”巻田”って地名は見当たらない。そこで、”マキタ”か”マイタ”で探してみたらあった。上田市に”舞田”って言う地名がありました。ひょっとしら、ここなのかな(^^?)
ご存知の方は、信州の巻田を御教示下さい(_"_)
閑話休題。
読み下し文は、こんな感じなのかな。
このたび切支丹の者共十一人引き捕らへ、牢屋に押し込め置き候のところ、今日において御会所御評定有りとの候。しかるに右十一人の中に丹下豊後と申す浪人御座候に、この者は江戸表、浅草前亀屋と申す宿にて笹川おせんと申す巡礼を切り殺し候こと、本人所持の品々より露見におよび、段々取調べ候のところ、逐一白状致し申し立て候は、さる慶長十一年午年三月九日信州巻田と申す所にて口論の末、笹川兼六と申す浪人を切り殺し候。これによりて妻子の者仇討ちのため順礼となり、あいたずねおり候みぎり、浅草亀屋と申す宿にて右の順礼も切り殺し候へば、その子又々順礼あいたずねおり候おもむき申し立て候。これによりて右の者共は残らず死罪致すべく処、右の状々御公儀に申し達っし、御伺い申し遣いの間、御返事下着まで右の浪人牢屋に入り置き申し付け候。亀屋で笹川おせん母娘を惨殺した時期は不明だけど、慶長十一年(1606)からそんなに時間が経っていないとすると、慶長十八年(1613)の浅草教会が取り壊された時期と重なってくる。
右に残らず十人は死罪申し渡し候のよう、仰せ付けられ候。これにより死罪の者共は妻子にあたえ、御国払い申し付け候。右申し渡しのおもむき申し入り候。
恐惶謹言寛永三寅年正月十一日
津軽越中守御大老中
直接、教会の取り壊しを目撃していないまでも、取り壊しによって行き場を失った切支丹と行動を共にした可能性はあるのかな。
さうさう、海が割れる場面は無いけど、津波の引き波で海底が露出することはあると思うので、該当する地震や津波が無いか調査せねば(^^;)/
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