この文章は、井上筑後守が切支丹吟味役に就任した寛永十七年(1640)頃のものと思われる。
以下に、書き起こしてみる。
態一筆致啓上候 然は喜利丹御穿鑿之儀に付先日以便申上候処に則井上筑後守殿より蒙仰候は右之者共御地へ令差登候迄も無御座候間令此方如何にも可申付之旨御候に付右より喜利支丹之道具持之者壱人を成敗申付候相残拾人之者共弥穿鑿仕候処右之内貳人改申出候様子之儀は今度井上筑後守殿委細申達候間御披露可有之と奉存如何様にも御指図於被仰下候には忝可奉存候へぇ~、こんな所にも『沈黙 -サイレンス-』でイッセー尾形が演じていた井上筑後守が出てくるのね。
恐惶謹言
七月十八日
津軽土佐守
弘前城下にて切支丹の信心具を持つ者がいて、1人を処刑したが、残り10人ばかりのうち2人が棄教したけど、どう言った対応がいいのか? って内容かな(^^?)
年代的に言って、伊勢系の始まりに当たる伊勢屋五左衛門に関するお伺いらしい。
この人は、棄教を拒み火刑になっている。
大挙してやって来た切支丹も、初めのうちは城下近くに住まわせて、町作りに使役していたが、幕府に切支丹隠匿がばれそうになって、慌てて弘前から遠く離れた岩木川の下流域や十三湖付近を開拓させた。
だが、不慣れな土地での開墾事業は、悲惨を極めたことは、想像に難くない。その窮状を訴えに弘前に出向いた伊勢屋五左衛門が、幕府の隠密にでも見つかってはまずいと言うことで、切支丹として処刑したのではないか。
以来、一人娘の”はる”とその子孫が庶民としては唯一の類族として記録に残っている。武家が2例と、小泊村の長松系は外国から帰国しないと言うから、これは例外だと思う。
それにしても、類族が4系統しか記録が無いのは、甚だ不自然極まりない。
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