2017年4月4日火曜日

無名の殉教者 - 津軽に押し寄せた切支丹


 高照神社文化財の解説員をされている小嶋義憲氏によれば、高照神社が文化財に指定されてから収蔵品の修復作業で、屏風の下張りから大量の古文書が出てきたそうです。そのいずれもが、切支丹に関するものばかりだったらしいです。
 大挙してくる切支丹の対応を幕府に相談する内容の下書きが、下張りに使われたらしい。

 それほど多くいた切支丹なのに、類族はわずか4系統?


 京都や加賀の切支丹を流人として受け入れた弘前藩、一般住民との接触を避けるため、わりと山間地の鬼沢村に収監したらしい。ただ、優秀な人材もあったらしく、一部の者は藩に出仕して、屋敷も与えられたようだ。その屋敷があった場所が備前町(今の白銀町辺り)と呼ばれたらしい。また、商売をする者も現れ、屋号を備前屋とした。
 ところが、藩が恐れていた事態が起きた。一代限りの切支丹信仰を許す代わりに、親族を含めた一切の布教活動の禁止を誓約させたにもかかわらず、城下に新たな切支丹信徒が誕生していた。
 藩は、誓約の不履行を咎め切支丹信徒の中心的6名3組の夫婦を、岩木川原で処刑した。一般的に処刑は、見せしめのために行われるため、取り締まり対象者が多い場所に刑場を作ったと思われる。
 すると、その対岸に切支丹の村が、あったものと思われる。現在の富士見橋周辺は、弘前城ができた頃は、岩木川が幾重にも枝分かれして流れていた。その流れを下流側で一本の流れにしたのが、富士見橋辺りだった。
 実際には、村と言うよりも、最初は石垣用の石材を荷揚げする場所があって、事務所と兼用する炊き出し用の小さな小屋があったのかな。後に、河川改修工事で多くの人夫が働くようになると、小さな集落を形成していたのではないかと思われる。
 また、富士見橋を渡ってまっすぐ数キロ行くと、切支丹が収監されていた鬼沢村がある。

 一体、どのくらいの切支丹がやって来たのか?


 それほど多くは無いと思う。実際には、主君を失ったり、領地を没収されて浪人なった人の方が、はるかに多かったはず。ただ、切支丹は取り締まり対象だったために、多くの文書が残ることになったと思われる。
 すると、ざくっと三百人前後の切支丹と倍の六百人程度の浪人で、千人規模の人々がわずか数年のうちに、弘前城下にやって来ていた。
 藩では、前例に鑑みて、城下に留め置くと何かとトラブルが多いので、城下に溢れていた浪人と切支丹を、城下から遠い岩木川下流域の開拓に送り込んだのではないか。
 藩としては、特に厄介者の切支丹を城下から引き離し、旨く行けば新田開発にもつながるとでも、考えたのかな。

 だが、一つの集落当たり数十人規模で5~6箇所に派遣された切支丹と浪人たちは、当座の食料と農具を与えられただけで、岩木川の下流域の治水工事に従事したが、あまりにも困難を極めた。
 現状を訴えるために、城下に上った者のうち、切支丹だけが処罰の対象になった。切支丹信徒であることを見逃してもらっていた温情に背いたと、藩では思ったのかな。
 それが、最期の殉教者となった伊勢屋五左衛門だったのではないかと思う。そして、その一族が、庶民としては唯一類族として記録に残ることになったのではないか。
 また、岩木川下流域に今でも見られる化粧地蔵も、この時に派遣された切支丹が初穂になったのではないかと思う。

 さて、こうやって弘前にやって来た浪人や切支丹たちは、消えて無くなってしまったわけではない。
 現在の弘前市は、地方都市の割りに名字の種類が多いらしい。またある意味、よそ者が集まって作った町が弘前だった側面もあり、八幡宮の祭礼が地元民の祭りなら、ねぷたは外来者が作り上げた祭りでもある。
 そして何より、津軽人気質とて『じょっぱり』は、外せない。このじょっぱり精神の始まりは、岩木川下流域の新田開発にあるのではないかと思う。およそ実現不可能と思われる事に対して、ムキになって取りかかかる。もはや、パッションの何物でもないような気がしてくる。
 そうやって、文物は残らなかったが、心、精神は残ったのかな。やがて時代は下って、民次郎一揆は、さながらキリストの受難の様相に見える。
 藤田民次郎は、農民の窮状を訴えて処刑された義民とも違う。困窮する農民どうしで、お互いに助け合うため備蓄米を融通しようとした。

汝の敵を愛せ。

 たとえ、田に引く水を巡る敵であっても、お互いを大切にしなければ、飢饉を乗り越えられない。

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