2017年4月1日土曜日

無名の殉教者 - 祖母の話

 私の父方の祖母は、明治36年生まれだった。その祖母から聞いたことがあった。
 藩政時代、津軽の殿様は、岩木山の裏はすぐに海になっていると、幕府に報告していた。
 この場合、裏とは弘前から見て裏側ぢゃなくて、江戸(南)からみて裏側なので、岩木山の北側、つまり岩木川の下流域は、無いと言っていたことになる。
 そこで、岩木川の河口にある十三湖が俄然重要になってくる。


 そもそも、この十三がキリスト教と重要な関連がある。
 ”十”は、十字架を、”三”は、三位一体を表していると言う。
 実際に切支丹の墓石に、十字ではなく”∴”が刻まれていることもあるそうです。

 ひょっとしたら、大量に津軽に到来した切支丹を藩では、岩木川沿いに住まわせ河川改修や土壌改善に従事させたのかな。
 それで、集落の名前を十三村(じゅうさんむら)としたのだろう。

 十三湖には、鎌倉時代に安東氏が開いた”十三湊(とさみなと)があるのだが、安東氏が開いた湊なら”安東湊(あんどみなと)になりそうものだし、仮に十三と言う地名が先にありそこに安藤氏が湊を開いたら十三(とさ)氏になるものだが・・・
 どうも、、安東氏が築いた居城も失われ、当時の古文書も残っていないことから、後世の歴史改ざんがあるのぢゃないかな。
 十三村が鎌倉時代には、既に存在しているようにした。なぜか? そこには切支丹の村があったから・・・

 すると、何度も出てくる”化粧地蔵”に十字があることや、”一本タモの木”にまつわる事跡など、切支丹の村を隠蔽した痕跡ではないかと思ってしまう。
 後年の大飢饉で多数の餓死者を出したのが、岩木川の左岸地域だった。元々農民ではなかった切支丹が、暖かい地方からやって来て、荒地の開墾が軌道に乗るとも思えない。
 度重なる洪水と飢饉で、投入された切支丹が全滅し、残ったのは地名と、胸に十字がある地蔵と色々な出来事を見守ってきたタモの木だけだった。

 津軽では江戸時代、大飢饉のあと住民のいなくなった農村に、下級藩士の次男以下を投入したようです。
 我が家の先祖も天保の飢饉の後、現在の集落に住み着いて、帰農したようです。戦国時代の終わりごろから、旧岩木町の一町田地区に居住し、それ以前は、鯵ヶ沢町の種里城周辺に居を構えていたらしい。

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