2017年4月3日月曜日

無名の殉教者 - 岩木川下流域の新田開発


 江戸時代の岩木川下流域の新田開発に関する研究論文を見ていて気づいた。
 最初から、藩を挙げての開発じゃなかった!

 戦国時代が終わったばかりで、人材的にも金銭的にも大規模な新田開発はできなかった。
 ところが、労働力は豊富にあった。そう、弾圧を逃れて来た切支丹や、戦で敗れて浪人に身をやつしている人が弘前に集まっていた。
 そこで、藩は浪人対策として、切支丹を労働力として与え、岩木川下流域の新田開発に着手させた。もし、旨くいけば、その土地を知行地とすることができたらしい。
 浪人にしてみれば、仕事があり、土地があり、更に労働力まで付いてくる。切支丹にしても、監視の目を気にせずに信仰を守ることができる。
 ん~、やっぱりあの化粧地蔵は、切支丹遺物の名残なのかなぁ(^^?)

 でも、世の中、そんな旨い話は無い。
 労働力として与えられた切支丹は、元々農民ではなく兵農分離後の武家の出が多かったために、農業に関しては全くの素人だったはず。
 新田開発に与えられた土地は、岩木川下流域の葦が生い茂る茫漠たる荒地だった。
 恐らくは、数十人規模で集落を形成して、岩木川の護岸を補強したり、灌漑用水を整備しても、一度洪水が起これば簡単に押し流されてしまったはず。
 今と違って、岩木川の水量も豊富だったこともあり、点のような集落では川の勢いに負けて芳しい成果は上がらなかったと思う。
 藩にしてみれば、有り余る浪人と切支丹を城下から引き離し、しかも、あわよくば新田も得られる。そんな目論見だったのだろう。

 その後、藩でも小規模の新田開発では、無理があると分かったらしく。組織的に新田開発に取り組むようになる。
 成果が出たのは、四代藩主津軽信政公の時代になってからだった。
 ちなみに、この殿様、テレビドラマの水戸黄門では、津軽の名君として度々取り上げられています。

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