2017年3月31日金曜日

無名の殉教者 - 一本タモの木

一本タモの木

 まぁ、これも周辺情報ってことで(^^;)/
 一本タモの木とは、現在のつがる市稲垣地区の岩木川左岸にあるヤチダモの巨樹である。
 ヤチダモとしては、日本一の大きさだそうです。

 以下に昭和56年作成の説明文を引用する。
 旧稲垣村の歴史は遺跡の発掘により平安時代からと明らかにされている。その頃から、風雪に耐えてこの村の繁栄を見守ってきたであろう。この老樹齢約壱千年におよぶといわれている。
 今から約三百六十年前(津軽二代藩主信枚公時代)津軽平野北部の当地方にはじめて開拓の手が入った頃、荒野の中に巍然として聳えていたと伝えられ平坦な荒野にそそり立つ姿はこの地開拓の恰好な目標であり、やがて開拓民の崇拝の的となったと考えられる。
 ヤチダモの特性である幹のこぶは、一見婦人の乳房に似ていることからいつの頃から子孫繁栄のシンボルである乳の神として信仰を集めてきたこの老樹をつがる市指定文化財とし市民の郷土愛の象徴として育み、将来とも市のシンボルとして敬愛されてゆくことを願い、保護していくものである。
  昭和56年から360年前だと元和五年(1619)となり、カルバリオ神父が頻繁に弘前を訪れて、切支丹信徒を励ましていた頃になる。
 この地区って、既出の『化粧地蔵』が沢山あるところで、この『一本タモの木』の傍らにも『化粧地蔵』が祀られています。
 ん~、何だか切支丹と関係がありそーな感じがする。
 津軽信枚公は、ヨハネの洗礼名を持つ元切支丹。京都や加賀から流されてきた切支丹71名を引見して、厚遇している。恐らくはこの噂を聞きつけた全国の切支丹が、大挙して弘前に到来したのでしょう。
 ところが、あまりにも多くの切支丹が来たものだから、城下周辺に住まわせるとトラブルがあっても困るし、幕府に隠匿をしていることが露見しても困る。
 そこで弘前藩は、岩木川の下流域の開拓に大量の切支丹を移住させたのかな(^^?)
 そして、藩の監視があることを知らしめるために、わざわざ藩主自ら参勤交代の途上、この『一本タモの木』に舟を繋いで、農民たちを励ました。のではないか・・・
 江戸時代の日本地図を思い出して欲しい。伊能忠敬の大日本沿海輿地全図ができるまで、津軽半島が無い。岩木川のの下流が無くて、弘前のすぐ北が海に面している。
 確か、江戸時代以前の地図には、正確さには欠けるが津軽半島らしきものは、描かれていたにも関わらず、江戸時代になるといきなり津軽半島が無くなる。
 これって、領地の過少申告ぢゃないのかな(^^?)
 それに、新田開発に大量の切支丹を使役していたなんで、幕府に知れたら一大事!
 ってことで、地図上から抹消したのかな。確かに、弘前公園に来てみれば分かると思いますが、四万五千石の城郭ぢゃないって(^_^)/
 やはり、江戸時代の極早い時期に、津軽に流れ込んできた色々な人たちが、下支えになったのかな(^^?)

2017年3月30日木曜日

無名の殉教者 - 月峰院の謎


 昨日、今日の二日間、PDF化されたキリシタン関連の研究論文を読んでいて、ちょっと謎が解けた。
 確か30年以上昔だったと思う。弘前大学が市内の寺院に保存されている切支丹遺物に関して調査した結果を目にしたことがあった。
 その中で、禅林街にある月峰院に突出して遺物が多かった記憶がある。

 それは、伊勢屋五左衛門の娘”はる”の菩提寺が月峰院だったことが、多数の切支丹遺物の発見につながったらしい。
 なんでも、”はる”は、当時としてはかなり長寿な77歳まで生きていて、子供や孫に恵まれたことから遺物が残るこのになったようです。

 それにしても惜しいことに、肝心の切支丹遺物調査の結果をどーやって見たのか、全く覚えていない。
 恐らくは、本屋で立ち読みでもしたのかな(^^?)

 この二日間、 キリシタン関連の研究論文のほかにも、郷土史研究家の方の言説なんかを見ていても、更に謎が増えたのが、類族が4系統しか記録が残っていないことだ。
 弘前藩で、対応に困るほど大挙して来た切支丹に大して、4系統の類族は少なすぎる。

 津軽での切支丹弾圧を逃れて、蝦夷の松前に渡ったと言われている。だが、津軽や松前で明治になって禁教が解かれるまで潜伏していた切支丹がいたと言う話も聞いたことがない。 唯一の例外は、弘前藩の藩医が、明治維新後も秘かにオラショを唱えていたらしい。かなり昔、その藩医の子孫が地元のテレビに出ていた。って、これは小泉系になるのかな(^^?)
 引き続き調査ですね。

2017年3月29日水曜日

無名の殉教者 - 資料調査

 今日は、ほとんど資料調査に費やされました。
 それも、PDFファイルなのに手書きにして、縦書きの文書。


 今回の調査で、伊勢系が少し分かった。
 何で伊勢出身で中田姓なのか?
 初代・古切支丹の伊勢屋五左衛門、その一人娘の”はる”が中田庄左衛門と結婚しており、男系は代々中田姓を踏襲していたので、伊勢系が中田姓だったそうです。
 中田姓は、長崎でも結構ある姓なので、何かつながりがあるのかと、思ってしまう。
 この時代、長崎の信徒が義援の米やお金を津軽に送ったらしいのですが、ひょっとしたら、長崎から津軽に届けに行ったまま、長崎に帰らずに津軽に残った人がいるのかなぁ?

 それから、小泉系ですね。初代・転切支丹の小泉長兵衛で、宇喜多家旧臣らしいです。こちらは、子孫が多くてよく分からないですね。
 あと、南條系です。初代・転切支丹の南條泰庵で、南部家の関係者だったのかな。調査継続要ですね。
 さうさう、既出の小泊村の長松系もありました、。甥に当たる人物まで取り締まり対象になっていたようです。

 ほとんど、弘前大学が収蔵している論文のコピーなのですが、50~60年ばかり前で手書きの文書は、今となっては古文書に等しい(^^;)
 ”衛”とか”門”を略字で書いているので、ちょっと面食らいました(@.@)

2017年3月28日火曜日

或る物語 - 邂逅


 時代は昭和30年代。地方都市の盛り場で、二十歳の若者と18歳になる彼女、それにこの若者を兄貴と慕う16歳の少年。
 盛り場のゴミ箱を漁る子犬がいた。通りかかったヤクザが子犬を蹴飛ばそうとした。少年は子犬を守るためにとっさにヤクザを突き飛ばした。
 ヤクザが少年の胸倉を掴み上げると、今度は若者が少年を守りために、ヤクザに殴りかかった。ところが、若者はヤクザに返り打ちに遭い、挙句に短刀で刺され瀕死の状態で、白い大きなドアに倒れこんだ。中にいた人に助けられ、ヤクザは追い返された。
 白いドアの建物はプロテスタントの教会だった。助けたのは牧師先生だった。あまりの出来事に棒立ちになっている彼女に一喝したのは看護師資格を持つ牧師夫人だった。

「あなた!何突っ立ているの!早く止血、止血!!手伝って!」

 牧師夫人と彼女で救急処置をして、救急車の到着を待った。
 搬送先で若者は、一命を取り留めた。

 あの少年は、ヤクザと若者が取っ組み合いになっている間に、子犬のあと追っかけて垣根を越えていった。やっと子犬を捕まえると、兄貴が心配になって戻ってみると、血の海になっていた。
 少年は怖くなり、さっき子犬を捕まえた場所に戻った。そこに少年が壊した垣根を直す老人がいた。少年が助けを求めた腰紐を結んだ老人は修道士で、そこはフランシスコ会の修道院だった。

 若者は、助けてくれた牧師先生に感動し、自ら神学校に入り牧師となった。若者の彼女は、牧師夫人の指導や助言を得て、看護師の資格を取り、若者と結婚した。つまり、牧師夫人となった。
 そして、少年は修道生活を送りながら勉強を再開させ、大学入学資格検定にも合格した。だが、大学には行かず、修道院に残った。

 牧師先生になった若者は、あの夜の少年が心配だった。消息が分からなかったのだ。
 また、修道士となった少年も、あの夜の兄貴が心配だった。

 ある年の年の瀬、街にはクリスマスの飾りや、クリスマスキャロルが溢れていた。幸福に満ち溢れていた。
 そこに、初老になった牧師先生が教会の子供たちと、『クリスマスを教会でお祝いしましょう!』と書いたプラカードを持って歩行者天国を歩いていた。
 あの少年も、すっかり老けた修道士になっていた。その修道士の耳にも、牧師先生と子供たちの声が聞こえてきた。この修道院は、あの迷い犬がきっかけで、犬のしつけ訓練も修道院の貴重な収入源となっていた。
 修道院の子犬がトコトコと駆け出し、外へと出て行く。追う修道士。子犬は、教会の子供たちに抱っこされていた。そこで、分かれて久しい若者と少年が再会した。多くは語らない。

2017年3月27日月曜日

無名の殉教者 - 津軽の切支丹類族の一例

 まぁ、これも参考資料ってことで(^_^)/
 当時、切支丹禁制が徹底していた例なんでしょう。それも、連座制が記録されている。

北前船之図

 小泊村(現:中泊町)生まれの漁師の長松(ちょうまつ・1734~?)が、寛延三年(1750)16歳の時、小泊の権七の仲介で、筑前国(福岡)船頭善右衛門の乗組員清二郎に養子入りしました。

 宝暦二年(1752)善右衛門の船で小泊湊から材木を積んで出航しましたが、暴風に遭い、切支丹信仰国とされていた呂宋(るそん・フィリピン)へ漂着。乗組員のうち長松ら6人が帰国しなかったため、切支丹信者とみなされ、長松らの一族は切支丹類族として取り扱われました。

 当時の日本はキリスト教禁止の統制を強化していて、本人が処刑されるだけでなく、その家族親類すべて切支丹類族として、厳しい監視下におかれ、出産から死亡にいたるまで干渉を受けました。長松の一家一族の監視は、明治六年(1873)キリスト禁制高札が撤去されるまで続いたということです。

 当時、親族に切支丹が見つかれば、監督不行届きってことで、親族一同が処罰の対象になったようです。
 本人がフィリピンに流れ着いて帰ってこないと言う理由だけで、切支丹類族扱いとは・・・
 たとえ帰ってきても、本人の命の保障が無いわけだから、”帰らない”って言う選択肢もアリだったのかも知れませんね。

2017年3月25日土曜日

無名の殉教者 - 流失した切支丹の村


 当初、当時の石渡を想定していた。現在の富士見橋を渡った場所から、現在の三浦酒造の辺りまでのおよそ2キロばかりの通りが石渡だった。
 文献に石渡が初めて登場するのが、富士見橋を渡ってすぐ左手奥に農家があって、囲炉裏から出火して火事になったことだそうです。この農家、冬場の農閑期に火薬の材料になる硝石を囲炉裏の下に仕込んでいたらしいけど、これに引火して火事になったらしい。
 次に登場するのは、現在の石渡地区に鍛冶屋があって、ここが火元で火事になっているそうです。
 それから、現在、ガソリンスタンドがある辺りに代官所があったらしい。丁度、道が三方向に分かれる場所にあるので、人が集まりやすく役所を置くのに都合が良かったのでしょう。ちなみに、明治維新後、代官所の建物は解体され、旧藤代村役場の建物に転用されたそうです。
 富士見橋が架かる以前、上流に石を飛び石状に並べて作った沈下橋があって、石渡橋と呼ばれていたらしい。
 弘前城が作られるまで、定住者はいなかったと思われる。それほどまでに、岩木川の氾濫は酷かったと思われる。それでも、小高い場所に砦が作られていたと思われる。江戸時代になって砦が必要なくなると、必勝祈願に祀っていた祠が神社になったようです。

 ・・・と言うことで、築城の際に、石垣用の巨石を運んだ場所に相応しい名前を考えてみました。
 「石集」って、”いしゅう”と読むのですが、どうですかねぇ(^^?)
 ”いしゅう”は、”Yehoshu'a”ってことで、ヨシュア(Joshua)イエス(Jesus)とつながると思うのね(^^;)/

無名の殉教者 - 京都から弘前に来た職工たち


 西暦で言えば、1700年代初頭、赤穂浪士の討ち入りがあった頃、茶人の野元道玄が京都から絹織物の職工と糸取り女、数十人を弘前に連れてきた。一時的な派遣ではなく、家族を引き連れた移住だった。
 当時の京都人の感覚では、関東ですら鬼が出ると思われていたし、本州の最果て津軽には、流人が流されて行く流刑地のイメージしか無くても可笑しくない。
 そんな場所に、家族を引き連れて移住するには、何らかの事情でもあったのではないかと、思ってしまう。

根曲がり竹で作った籠

 そんな名プロデューサーの野元道玄が亡くなって一年が経って一周忌法要の時、京都から移住した人たちの子供らが、手に手に小さな灯篭を持って行進したらしい。享保五年(1720)に、津軽信寿公が報恩寺で「眠流」をご高覧したと記録されています。
 いたく感動した信寿公は、三回忌法要に来るので是非、「眠流」をやって欲しいと要請したようです。でもって、三回忌法要では、大人が曳く大きな灯篭になっていたそうです。ただ、あまり受けなかったみたいですが、次回を期待して信寿公はもって励むようにと、お墨付きを出したみたいです。これに応えるべく、四角い灯篭が、人型の灯篭へと変化して、「ねむた」になったようです。そう、あの蛇籠を編む技術の応用で・・・
 ここでちょっと整理します。「眠流」は本来、農民の祭りで「虫送り」だったはずです。夏場に害虫を駆除するために、暗くなってから田んぼの近くで火を焚いて害虫を駆除したものらしいです。それが、「ねむた」は、町人が担い手となります。それも、観客である殿様を喜ばすために色々と趣向を凝らして発達して、今の組ねぷたとなったのでしょう。

 ってことで、次回は「ねぷた考」かな(^^?)