西暦で言えば、1700年代初頭、赤穂浪士の討ち入りがあった頃、茶人の野元道玄が京都から絹織物の職工と糸取り女、数十人を弘前に連れてきた。一時的な派遣ではなく、家族を引き連れた移住だった。
当時の京都人の感覚では、関東ですら鬼が出ると思われていたし、本州の最果て津軽には、流人が流されて行く流刑地のイメージしか無くても可笑しくない。
そんな場所に、家族を引き連れて移住するには、何らかの事情でもあったのではないかと、思ってしまう。
根曲がり竹で作った籠
そんな名プロデューサーの野元道玄が亡くなって一年が経って一周忌法要の時、京都から移住した人たちの子供らが、手に手に小さな灯篭を持って行進したらしい。享保五年(1720)に、津軽信寿公が報恩寺で「眠流」をご高覧したと記録されています。
いたく感動した信寿公は、三回忌法要に来るので是非、「眠流」をやって欲しいと要請したようです。でもって、三回忌法要では、大人が曳く大きな灯篭になっていたそうです。ただ、あまり受けなかったみたいですが、次回を期待して信寿公はもって励むようにと、お墨付きを出したみたいです。これに応えるべく、四角い灯篭が、人型の灯篭へと変化して、「ねむた」になったようです。そう、あの蛇籠を編む技術の応用で・・・
ここでちょっと整理します。「眠流」は本来、農民の祭りで「虫送り」だったはずです。夏場に害虫を駆除するために、暗くなってから田んぼの近くで火を焚いて害虫を駆除したものらしいです。それが、「ねむた」は、町人が担い手となります。それも、観客である殿様を喜ばすために色々と趣向を凝らして発達して、今の組ねぷたとなったのでしょう。
ってことで、次回は「ねぷた考」かな(^^?)
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