2017年3月30日木曜日

無名の殉教者 - 月峰院の謎


 昨日、今日の二日間、PDF化されたキリシタン関連の研究論文を読んでいて、ちょっと謎が解けた。
 確か30年以上昔だったと思う。弘前大学が市内の寺院に保存されている切支丹遺物に関して調査した結果を目にしたことがあった。
 その中で、禅林街にある月峰院に突出して遺物が多かった記憶がある。

 それは、伊勢屋五左衛門の娘”はる”の菩提寺が月峰院だったことが、多数の切支丹遺物の発見につながったらしい。
 なんでも、”はる”は、当時としてはかなり長寿な77歳まで生きていて、子供や孫に恵まれたことから遺物が残るこのになったようです。

 それにしても惜しいことに、肝心の切支丹遺物調査の結果をどーやって見たのか、全く覚えていない。
 恐らくは、本屋で立ち読みでもしたのかな(^^?)

 この二日間、 キリシタン関連の研究論文のほかにも、郷土史研究家の方の言説なんかを見ていても、更に謎が増えたのが、類族が4系統しか記録が残っていないことだ。
 弘前藩で、対応に困るほど大挙して来た切支丹に大して、4系統の類族は少なすぎる。

 津軽での切支丹弾圧を逃れて、蝦夷の松前に渡ったと言われている。だが、津軽や松前で明治になって禁教が解かれるまで潜伏していた切支丹がいたと言う話も聞いたことがない。 唯一の例外は、弘前藩の藩医が、明治維新後も秘かにオラショを唱えていたらしい。かなり昔、その藩医の子孫が地元のテレビに出ていた。って、これは小泉系になるのかな(^^?)
 引き続き調査ですね。

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