2017年3月25日土曜日

無名の殉教者 - 流失した切支丹の村


 当初、当時の石渡を想定していた。現在の富士見橋を渡った場所から、現在の三浦酒造の辺りまでのおよそ2キロばかりの通りが石渡だった。
 文献に石渡が初めて登場するのが、富士見橋を渡ってすぐ左手奥に農家があって、囲炉裏から出火して火事になったことだそうです。この農家、冬場の農閑期に火薬の材料になる硝石を囲炉裏の下に仕込んでいたらしいけど、これに引火して火事になったらしい。
 次に登場するのは、現在の石渡地区に鍛冶屋があって、ここが火元で火事になっているそうです。
 それから、現在、ガソリンスタンドがある辺りに代官所があったらしい。丁度、道が三方向に分かれる場所にあるので、人が集まりやすく役所を置くのに都合が良かったのでしょう。ちなみに、明治維新後、代官所の建物は解体され、旧藤代村役場の建物に転用されたそうです。
 富士見橋が架かる以前、上流に石を飛び石状に並べて作った沈下橋があって、石渡橋と呼ばれていたらしい。
 弘前城が作られるまで、定住者はいなかったと思われる。それほどまでに、岩木川の氾濫は酷かったと思われる。それでも、小高い場所に砦が作られていたと思われる。江戸時代になって砦が必要なくなると、必勝祈願に祀っていた祠が神社になったようです。

 ・・・と言うことで、築城の際に、石垣用の巨石を運んだ場所に相応しい名前を考えてみました。
 「石集」って、”いしゅう”と読むのですが、どうですかねぇ(^^?)
 ”いしゅう”は、”Yehoshu'a”ってことで、ヨシュア(Joshua)イエス(Jesus)とつながると思うのね(^^;)/

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