一本タモの木
まぁ、これも周辺情報ってことで(^^;)/
『一本タモの木』とは、現在のつがる市稲垣地区の岩木川左岸にあるヤチダモの巨樹である。
ヤチダモとしては、日本一の大きさだそうです。
以下に昭和56年作成の説明文を引用する。
旧稲垣村の歴史は遺跡の発掘により平安時代からと明らかにされている。その頃から、風雪に耐えてこの村の繁栄を見守ってきたであろう。この老樹齢約壱千年におよぶといわれている。昭和56年から360年前だと元和五年(1619)となり、カルバリオ神父が頻繁に弘前を訪れて、切支丹信徒を励ましていた頃になる。
今から約三百六十年前(津軽二代藩主信枚公時代)津軽平野北部の当地方にはじめて開拓の手が入った頃、荒野の中に巍然として聳えていたと伝えられ平坦な荒野にそそり立つ姿はこの地開拓の恰好な目標であり、やがて開拓民の崇拝の的となったと考えられる。
ヤチダモの特性である幹のこぶは、一見婦人の乳房に似ていることからいつの頃から子孫繁栄のシンボルである乳の神として信仰を集めてきたこの老樹をつがる市指定文化財とし市民の郷土愛の象徴として育み、将来とも市のシンボルとして敬愛されてゆくことを願い、保護していくものである。
この地区って、既出の『化粧地蔵』が沢山あるところで、この『一本タモの木』の傍らにも『化粧地蔵』が祀られています。
ん~、何だか切支丹と関係がありそーな感じがする。
津軽信枚公は、ヨハネの洗礼名を持つ元切支丹。京都や加賀から流されてきた切支丹71名を引見して、厚遇している。恐らくはこの噂を聞きつけた全国の切支丹が、大挙して弘前に到来したのでしょう。
ところが、あまりにも多くの切支丹が来たものだから、城下周辺に住まわせるとトラブルがあっても困るし、幕府に隠匿をしていることが露見しても困る。
そこで弘前藩は、岩木川の下流域の開拓に大量の切支丹を移住させたのかな(^^?)
そして、藩の監視があることを知らしめるために、わざわざ藩主自ら参勤交代の途上、この『一本タモの木』に舟を繋いで、農民たちを励ました。のではないか・・・
江戸時代の日本地図を思い出して欲しい。伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』ができるまで、津軽半島が無い。岩木川のの下流が無くて、弘前のすぐ北が海に面している。
確か、江戸時代以前の地図には、正確さには欠けるが津軽半島らしきものは、描かれていたにも関わらず、江戸時代になるといきなり津軽半島が無くなる。
これって、領地の過少申告ぢゃないのかな(^^?)
それに、新田開発に大量の切支丹を使役していたなんで、幕府に知れたら一大事!
ってことで、地図上から抹消したのかな。確かに、弘前公園に来てみれば分かると思いますが、四万五千石の城郭ぢゃないって(^_^)/
やはり、江戸時代の極早い時期に、津軽に流れ込んできた色々な人たちが、下支えになったのかな(^^?)