2017年3月31日金曜日

無名の殉教者 - 一本タモの木

一本タモの木

 まぁ、これも周辺情報ってことで(^^;)/
 一本タモの木とは、現在のつがる市稲垣地区の岩木川左岸にあるヤチダモの巨樹である。
 ヤチダモとしては、日本一の大きさだそうです。

 以下に昭和56年作成の説明文を引用する。
 旧稲垣村の歴史は遺跡の発掘により平安時代からと明らかにされている。その頃から、風雪に耐えてこの村の繁栄を見守ってきたであろう。この老樹齢約壱千年におよぶといわれている。
 今から約三百六十年前(津軽二代藩主信枚公時代)津軽平野北部の当地方にはじめて開拓の手が入った頃、荒野の中に巍然として聳えていたと伝えられ平坦な荒野にそそり立つ姿はこの地開拓の恰好な目標であり、やがて開拓民の崇拝の的となったと考えられる。
 ヤチダモの特性である幹のこぶは、一見婦人の乳房に似ていることからいつの頃から子孫繁栄のシンボルである乳の神として信仰を集めてきたこの老樹をつがる市指定文化財とし市民の郷土愛の象徴として育み、将来とも市のシンボルとして敬愛されてゆくことを願い、保護していくものである。
  昭和56年から360年前だと元和五年(1619)となり、カルバリオ神父が頻繁に弘前を訪れて、切支丹信徒を励ましていた頃になる。
 この地区って、既出の『化粧地蔵』が沢山あるところで、この『一本タモの木』の傍らにも『化粧地蔵』が祀られています。
 ん~、何だか切支丹と関係がありそーな感じがする。
 津軽信枚公は、ヨハネの洗礼名を持つ元切支丹。京都や加賀から流されてきた切支丹71名を引見して、厚遇している。恐らくはこの噂を聞きつけた全国の切支丹が、大挙して弘前に到来したのでしょう。
 ところが、あまりにも多くの切支丹が来たものだから、城下周辺に住まわせるとトラブルがあっても困るし、幕府に隠匿をしていることが露見しても困る。
 そこで弘前藩は、岩木川の下流域の開拓に大量の切支丹を移住させたのかな(^^?)
 そして、藩の監視があることを知らしめるために、わざわざ藩主自ら参勤交代の途上、この『一本タモの木』に舟を繋いで、農民たちを励ました。のではないか・・・
 江戸時代の日本地図を思い出して欲しい。伊能忠敬の大日本沿海輿地全図ができるまで、津軽半島が無い。岩木川のの下流が無くて、弘前のすぐ北が海に面している。
 確か、江戸時代以前の地図には、正確さには欠けるが津軽半島らしきものは、描かれていたにも関わらず、江戸時代になるといきなり津軽半島が無くなる。
 これって、領地の過少申告ぢゃないのかな(^^?)
 それに、新田開発に大量の切支丹を使役していたなんで、幕府に知れたら一大事!
 ってことで、地図上から抹消したのかな。確かに、弘前公園に来てみれば分かると思いますが、四万五千石の城郭ぢゃないって(^_^)/
 やはり、江戸時代の極早い時期に、津軽に流れ込んできた色々な人たちが、下支えになったのかな(^^?)

2017年3月30日木曜日

無名の殉教者 - 月峰院の謎


 昨日、今日の二日間、PDF化されたキリシタン関連の研究論文を読んでいて、ちょっと謎が解けた。
 確か30年以上昔だったと思う。弘前大学が市内の寺院に保存されている切支丹遺物に関して調査した結果を目にしたことがあった。
 その中で、禅林街にある月峰院に突出して遺物が多かった記憶がある。

 それは、伊勢屋五左衛門の娘”はる”の菩提寺が月峰院だったことが、多数の切支丹遺物の発見につながったらしい。
 なんでも、”はる”は、当時としてはかなり長寿な77歳まで生きていて、子供や孫に恵まれたことから遺物が残るこのになったようです。

 それにしても惜しいことに、肝心の切支丹遺物調査の結果をどーやって見たのか、全く覚えていない。
 恐らくは、本屋で立ち読みでもしたのかな(^^?)

 この二日間、 キリシタン関連の研究論文のほかにも、郷土史研究家の方の言説なんかを見ていても、更に謎が増えたのが、類族が4系統しか記録が残っていないことだ。
 弘前藩で、対応に困るほど大挙して来た切支丹に大して、4系統の類族は少なすぎる。

 津軽での切支丹弾圧を逃れて、蝦夷の松前に渡ったと言われている。だが、津軽や松前で明治になって禁教が解かれるまで潜伏していた切支丹がいたと言う話も聞いたことがない。 唯一の例外は、弘前藩の藩医が、明治維新後も秘かにオラショを唱えていたらしい。かなり昔、その藩医の子孫が地元のテレビに出ていた。って、これは小泉系になるのかな(^^?)
 引き続き調査ですね。

2017年3月29日水曜日

無名の殉教者 - 資料調査

 今日は、ほとんど資料調査に費やされました。
 それも、PDFファイルなのに手書きにして、縦書きの文書。


 今回の調査で、伊勢系が少し分かった。
 何で伊勢出身で中田姓なのか?
 初代・古切支丹の伊勢屋五左衛門、その一人娘の”はる”が中田庄左衛門と結婚しており、男系は代々中田姓を踏襲していたので、伊勢系が中田姓だったそうです。
 中田姓は、長崎でも結構ある姓なので、何かつながりがあるのかと、思ってしまう。
 この時代、長崎の信徒が義援の米やお金を津軽に送ったらしいのですが、ひょっとしたら、長崎から津軽に届けに行ったまま、長崎に帰らずに津軽に残った人がいるのかなぁ?

 それから、小泉系ですね。初代・転切支丹の小泉長兵衛で、宇喜多家旧臣らしいです。こちらは、子孫が多くてよく分からないですね。
 あと、南條系です。初代・転切支丹の南條泰庵で、南部家の関係者だったのかな。調査継続要ですね。
 さうさう、既出の小泊村の長松系もありました、。甥に当たる人物まで取り締まり対象になっていたようです。

 ほとんど、弘前大学が収蔵している論文のコピーなのですが、50~60年ばかり前で手書きの文書は、今となっては古文書に等しい(^^;)
 ”衛”とか”門”を略字で書いているので、ちょっと面食らいました(@.@)

2017年3月28日火曜日

或る物語 - 邂逅


 時代は昭和30年代。地方都市の盛り場で、二十歳の若者と18歳になる彼女、それにこの若者を兄貴と慕う16歳の少年。
 盛り場のゴミ箱を漁る子犬がいた。通りかかったヤクザが子犬を蹴飛ばそうとした。少年は子犬を守るためにとっさにヤクザを突き飛ばした。
 ヤクザが少年の胸倉を掴み上げると、今度は若者が少年を守りために、ヤクザに殴りかかった。ところが、若者はヤクザに返り打ちに遭い、挙句に短刀で刺され瀕死の状態で、白い大きなドアに倒れこんだ。中にいた人に助けられ、ヤクザは追い返された。
 白いドアの建物はプロテスタントの教会だった。助けたのは牧師先生だった。あまりの出来事に棒立ちになっている彼女に一喝したのは看護師資格を持つ牧師夫人だった。

「あなた!何突っ立ているの!早く止血、止血!!手伝って!」

 牧師夫人と彼女で救急処置をして、救急車の到着を待った。
 搬送先で若者は、一命を取り留めた。

 あの少年は、ヤクザと若者が取っ組み合いになっている間に、子犬のあと追っかけて垣根を越えていった。やっと子犬を捕まえると、兄貴が心配になって戻ってみると、血の海になっていた。
 少年は怖くなり、さっき子犬を捕まえた場所に戻った。そこに少年が壊した垣根を直す老人がいた。少年が助けを求めた腰紐を結んだ老人は修道士で、そこはフランシスコ会の修道院だった。

 若者は、助けてくれた牧師先生に感動し、自ら神学校に入り牧師となった。若者の彼女は、牧師夫人の指導や助言を得て、看護師の資格を取り、若者と結婚した。つまり、牧師夫人となった。
 そして、少年は修道生活を送りながら勉強を再開させ、大学入学資格検定にも合格した。だが、大学には行かず、修道院に残った。

 牧師先生になった若者は、あの夜の少年が心配だった。消息が分からなかったのだ。
 また、修道士となった少年も、あの夜の兄貴が心配だった。

 ある年の年の瀬、街にはクリスマスの飾りや、クリスマスキャロルが溢れていた。幸福に満ち溢れていた。
 そこに、初老になった牧師先生が教会の子供たちと、『クリスマスを教会でお祝いしましょう!』と書いたプラカードを持って歩行者天国を歩いていた。
 あの少年も、すっかり老けた修道士になっていた。その修道士の耳にも、牧師先生と子供たちの声が聞こえてきた。この修道院は、あの迷い犬がきっかけで、犬のしつけ訓練も修道院の貴重な収入源となっていた。
 修道院の子犬がトコトコと駆け出し、外へと出て行く。追う修道士。子犬は、教会の子供たちに抱っこされていた。そこで、分かれて久しい若者と少年が再会した。多くは語らない。

2017年3月27日月曜日

無名の殉教者 - 津軽の切支丹類族の一例

 まぁ、これも参考資料ってことで(^_^)/
 当時、切支丹禁制が徹底していた例なんでしょう。それも、連座制が記録されている。

北前船之図

 小泊村(現:中泊町)生まれの漁師の長松(ちょうまつ・1734~?)が、寛延三年(1750)16歳の時、小泊の権七の仲介で、筑前国(福岡)船頭善右衛門の乗組員清二郎に養子入りしました。

 宝暦二年(1752)善右衛門の船で小泊湊から材木を積んで出航しましたが、暴風に遭い、切支丹信仰国とされていた呂宋(るそん・フィリピン)へ漂着。乗組員のうち長松ら6人が帰国しなかったため、切支丹信者とみなされ、長松らの一族は切支丹類族として取り扱われました。

 当時の日本はキリスト教禁止の統制を強化していて、本人が処刑されるだけでなく、その家族親類すべて切支丹類族として、厳しい監視下におかれ、出産から死亡にいたるまで干渉を受けました。長松の一家一族の監視は、明治六年(1873)キリスト禁制高札が撤去されるまで続いたということです。

 当時、親族に切支丹が見つかれば、監督不行届きってことで、親族一同が処罰の対象になったようです。
 本人がフィリピンに流れ着いて帰ってこないと言う理由だけで、切支丹類族扱いとは・・・
 たとえ帰ってきても、本人の命の保障が無いわけだから、”帰らない”って言う選択肢もアリだったのかも知れませんね。

2017年3月25日土曜日

無名の殉教者 - 流失した切支丹の村


 当初、当時の石渡を想定していた。現在の富士見橋を渡った場所から、現在の三浦酒造の辺りまでのおよそ2キロばかりの通りが石渡だった。
 文献に石渡が初めて登場するのが、富士見橋を渡ってすぐ左手奥に農家があって、囲炉裏から出火して火事になったことだそうです。この農家、冬場の農閑期に火薬の材料になる硝石を囲炉裏の下に仕込んでいたらしいけど、これに引火して火事になったらしい。
 次に登場するのは、現在の石渡地区に鍛冶屋があって、ここが火元で火事になっているそうです。
 それから、現在、ガソリンスタンドがある辺りに代官所があったらしい。丁度、道が三方向に分かれる場所にあるので、人が集まりやすく役所を置くのに都合が良かったのでしょう。ちなみに、明治維新後、代官所の建物は解体され、旧藤代村役場の建物に転用されたそうです。
 富士見橋が架かる以前、上流に石を飛び石状に並べて作った沈下橋があって、石渡橋と呼ばれていたらしい。
 弘前城が作られるまで、定住者はいなかったと思われる。それほどまでに、岩木川の氾濫は酷かったと思われる。それでも、小高い場所に砦が作られていたと思われる。江戸時代になって砦が必要なくなると、必勝祈願に祀っていた祠が神社になったようです。

 ・・・と言うことで、築城の際に、石垣用の巨石を運んだ場所に相応しい名前を考えてみました。
 「石集」って、”いしゅう”と読むのですが、どうですかねぇ(^^?)
 ”いしゅう”は、”Yehoshu'a”ってことで、ヨシュア(Joshua)イエス(Jesus)とつながると思うのね(^^;)/

無名の殉教者 - 京都から弘前に来た職工たち


 西暦で言えば、1700年代初頭、赤穂浪士の討ち入りがあった頃、茶人の野元道玄が京都から絹織物の職工と糸取り女、数十人を弘前に連れてきた。一時的な派遣ではなく、家族を引き連れた移住だった。
 当時の京都人の感覚では、関東ですら鬼が出ると思われていたし、本州の最果て津軽には、流人が流されて行く流刑地のイメージしか無くても可笑しくない。
 そんな場所に、家族を引き連れて移住するには、何らかの事情でもあったのではないかと、思ってしまう。

根曲がり竹で作った籠

 そんな名プロデューサーの野元道玄が亡くなって一年が経って一周忌法要の時、京都から移住した人たちの子供らが、手に手に小さな灯篭を持って行進したらしい。享保五年(1720)に、津軽信寿公が報恩寺で「眠流」をご高覧したと記録されています。
 いたく感動した信寿公は、三回忌法要に来るので是非、「眠流」をやって欲しいと要請したようです。でもって、三回忌法要では、大人が曳く大きな灯篭になっていたそうです。ただ、あまり受けなかったみたいですが、次回を期待して信寿公はもって励むようにと、お墨付きを出したみたいです。これに応えるべく、四角い灯篭が、人型の灯篭へと変化して、「ねむた」になったようです。そう、あの蛇籠を編む技術の応用で・・・
 ここでちょっと整理します。「眠流」は本来、農民の祭りで「虫送り」だったはずです。夏場に害虫を駆除するために、暗くなってから田んぼの近くで火を焚いて害虫を駆除したものらしいです。それが、「ねむた」は、町人が担い手となります。それも、観客である殿様を喜ばすために色々と趣向を凝らして発達して、今の組ねぷたとなったのでしょう。

 ってことで、次回は「ねぷた考」かな(^^?)

2017年3月24日金曜日

無名の殉教者 - 江戸時代の大規模土木工事

 江戸時代の極早い時期は、築城ブームだったようです。
 幕府から一国一城令が出されると、既存の城に満足していなかった諸大名がごぞって新城を築城したものだそうです。
 では、その労働力はどこから調達したのでしょうか?
 ほとんどは、農民だった思われます。それも農閑期の冬場とかに行われたでしょう。農繁期ぢゃ、米の生産に支障を来たす可能性がありますからね。
 でも、これって雪の降らない地方のお話だと思う。ここ弘前では、そんな悠長なことは、言ってられない。冬は全て雪の下になってしまい、作業どころでない。
 ってことで、ここ弘前では、雪の無い時期に築城しなければならなかった。だけど、農民は農作業に忙しくて、築城工事に人を出したくない。
 こんな状況下で、弘前には、農民以外に労働力があった。津軽一帯を支配していた南部家旧臣、旧豊臣政権側の武将とその一族、弾圧を逃れて来ていた切支丹信徒などがいた。
 恐らく、弘前城の築城には、南部家旧と旧豊臣政権側の武将とその一族が関わっていたと思われる。
 そして、築城後に、弾圧が厳しくなっていた切支丹が大挙して流れ込んできた。今度は、城ではなく弘前周辺の寺を弘前城の周辺に移築工事に従事した。そこ結果、弘前に大規模な寺町を構成した。現在でも、長勝寺構えとして往時の様子を伺い知ることができる。
 旧来、南部氏との戦いを想定して、この寺町に立てこもって戦うと言われていた。しかし、最近では、非戦闘員の避難施設として寺町が機能すると言う意見がある。


 城も町もできた。すると、この労働力は使い道が無くなるかと言うと、そんなことは無い。
 今度は、岩木川の河川改修工事だった。恐らく築城の際、石垣用の石材を岩木川の上流から切り出して、弘前城から最寄の岩木川の川原に荷揚げする場所を整備した結果、洪水の発生頻度が低くなったのでしょう。
 現在の岩木橋から富士見橋にかけの流域は、数本に別れて流れていた。これを、現在のように一本の流れにした。その結果、洪水が激減して耕作地が広がった。
 その新たな耕作地を切支丹に与え、集落を作らせ河川の維持管理を任せた。自分たちの集落と耕作地を守るために、洪水を防ぐために尽力することを期待されたのだろう。

 冬以外の季節で、農民を使わないで大規模な土木工事ができたことで、弘前との周辺は急速に町としての機能を充実したのではないかと考えられる。
 ただ、どーも切支丹が開墾した土地を藩が取り上げ、更に下流域の荒地を開墾させたと思われる。その痕跡が、あの化粧地蔵なのかも知れない。
 祖法に反する切支丹を保護しているわけだから、立場の弱い切支丹は藩の無理を受け入れざるを得ないことは、想像できる。
 後年、無理が行き過ぎて切支丹の末裔は、飢饉で全滅したもの思われる。

 切支丹から土地を取り上げて、よそから入植させても、自分たちで切り開いた土地ではないので、それほど治水に関心があったとは思えない。帰る場所がある人にとって、あくまで仮住まいの集落だったのでしょう。後年、大規模水害で集落は痕跡も無く押し流され、跡地には蔵が立ち並んで人は住んでいなかったようです。

2017年3月23日木曜日

無名の殉教者 - 「衣食足りて信仰を忘れる」か?

 最近、津軽では江戸時代の古文書が多数発見されているそうです。
 数年前の大雪で損傷した旧家の蔵の修復作業や神社仏閣の宝物などの修繕で、屏風や襖の下打ちから墨書きした文書が続々と発見されているのだとか・・・
 そのほとんどが、切支丹に関係するものばかりだそうです。

 京都や加賀から切支丹を流人として受け入れて厚遇したことが、全国の切支丹に噂として広まったのでしょう。
 続々と大挙して来る切支丹に手を焼いた弘前藩では、判断を幕府に仰いだようです。
 ただ、不幸なことに弘前藩は、幕府への忠誠の証しとして、切支丹を弾圧しました。
 そのため、切支丹のみならず、その子孫である類族は、幕末まで飢饉があっても食料が与えられ、生き残ることを義務付けられていました。
 現在の平川市大光寺地区に類族の集落があったようです。普段は周辺で耕作を行い、結婚や移動に制限があり、死んでも江戸から検分役人が来るまで、遺体が塩漬けにされたものだそうです。
 意外と知られていないと思いますが、類族は先祖が切支丹であったと言うだけで、信仰の有無は関係無かったようです。
 藩にしてみれば、切支丹の末裔を弾圧し続けていることを、幕府に示すために類族が必用だったとも言える。
 そのため、幕末の長崎であったような信徒発見は、津軽には無いわけです。

 しかし、あの壮絶が殉教を目の当たりにした人々には、心に深く刻まれたことでしょう。
 情熱を持って他者に利する働き・・・
 津軽のじょっぱり精神はこの辺にルーツがあるとしたら、面白いかも知れません。
 じょっぱりって、漢字で書けば”情張り”となります。この精神状態は、パッションが近いと私は思います。


 藩の恭順策に従い信仰を捨てた者、抵抗して類族として生き続けた者、どちらの子孫も切支丹の信仰を伝えていません。
 だた、そのじょっぱり精神が、明治維新後の弘前バンドとして開花したのではないかと思います。

 衣食足りて信仰は失われたが、心は残った。


 ・・・と思いたいですね。

2017年3月22日水曜日

無名の殉教者 - 聖言の典礼


 手元の資料に岩波文庫の長崎版どちりなきりしたんがあったはずだが、見当たらない。
 確か「青森県における精神史」って言うハードカバーのかかった本もどこに行ったのやら(^^?)
 貴重な資料だと思って厳重に仕舞い込んだら、今度は出てこない(^^;)
 これをweb上から探すと、中々良い文章が出てこない。
 ってことで、キリシタン時代の典礼を再現してみました(^^;)/

 パードレ不在の典礼について。


起立

デウスとデウスヒイリヨとスピリツサントに依りて。
あめん。
我らが救い主イスス・キリシトの恵みと喜びが、我らに力を与え給え。

あめん。


『使徒信経』


 万事叶ひ給ひ天地を造り給ふおん親デウスとそのおん一人子、我らがおん主デウスを誠に信じ奉る。
 このおん子スピリツサント奇特をもって宿され給ひビルゼンマリアより生まれ給ふ。
 ポンテオピラトが下にをいて呵責を受こらへクルスにかけられ死し給ひて御棺の納められ給ふ。
 大地の底へ下り給ひ三日目によみがへり給ふ。
 天に上り給ひ万事叶ひ給ふおん親デスウのおん右に備り給ふ。
 それより生きたる人、死したる人を糺し給はん為に天降り給ふべし。
 スピリツサントを誠に信じ奉る。
 かとりにて在ますサンタヱケレジャ。
 サントス皆通用し給ふこと。
 科のおん赦し、肉身のよみがへるべき事、終わりなき命とを誠に信じ奉る。

あめん。


『ぱあてるのすてる』


 天に御座(まし)ます我等が御(おん)(をや)御名(みな)を貴(たふと)まれ給(たま)へ。
 御代(みよ)来り給へ。天にをひて御(ご)おんたあでのままなるごとく、地にをひてもあらせ給(たま)へ。
 我等が日々の御(おん)(やしな)ひを今日(こんにち)与へたび給へ。
 我等より負(お)ひたる人に赦(ゆる)し申(まうす)ごとく、我等負(お)ひ奉る事を赦(ゆる)し給(たま)へ。
 我等をてんたさんに放(はな)し玉ふ事なかれ。
 我等を兇悪(けうあく)よりのがし給(たま)へ。

あめん。

『あべまりあ』


 がらさみちみち玉ふまりあに御礼(おんれい)をなし奉る。
 御(おん)主は御(おん)身と共(とも)に御座(まし)ます。
 女人(にょにん)の中(なか)にをひてべねぢいたにてわたらせ玉ふ。
 又御(ご)胎内(たひなひ)の御実(おんみ)にて御座(まし)ますぜずゝはべねぢいとにて御座(まし)ます。
 でうすの御母(おんはわ)さんた-まりあ、今も我等が最期(さいご)にも、我等悪人の為に頼み給(たま)へ。

あめん。


 当時、司祭が常駐していることは希だったので、御言葉による典礼が主流だったと思います。
 この頃、既に日本語訳の聖書もあったよーですが、印刷物は弾圧と共に焚書になったようです。しかし、祈りの言葉は失われず後世に伝わったのでしょうね。

2017年3月21日火曜日

無名の殉教者 - 第3部復活編(人の巻):登場人物


 第3部は、他の編から独立していて、直接関係を持たない。強いて言えば、同じ土地で別の人々の物語。だけど、起こる出来事は、第三者の立場から見ると関連していているように見える。それが、神の摂理(Divine Providence)と言うものだろうか?

イエス:伊佐治(いさじ)
 代理の庄で二十代前半の若者。所帯持ちで、最近、女の子が生まれたばかり。
 父親が庄屋を引退して、長男が跡を継いで庄屋をしていたが、流行り病で急逝したので、急遽庄屋となったが、まだ見習い中。
 そもそも、庄屋を継ぐつもりが無かったので、学問で身を立て村に貢献するつもりだった。
シモン・ペテロ:巌太郎(いわたろう)
 伊佐治の隣村の庄屋。老練なことで有名だった。若い伊佐治を我らの見習うべき”師”として引き立てていた。
 伊佐治が捕らえらえると、代官屋敷に潜り込み救出を試みるが、代官の下女に見つかり逃げる。
 伊佐治が処刑されてしまうと、やっと何を主眼に訴えていた気づく。
ゼベダイの子ヤコブ:三尺(さんじゃく)
 この名前は、あだ名。
 農民だが、岩木川の川漁師もやっている。
ヨハネ:修庵(しゅうあん)
 農民の子として生まれたが、学問に興味を持ったことから寺に預けられていた。
 伊佐治の弟分に当たる幼馴染で、村の一大事に寺を抜け出して、駆けつけていた。
アンデレ:安次郎(やすじろう)
 巌太郎の弟。気さくな若者で、顔が広い。
フィリポ:強力(ごうりき)
 この名前は、あだ名。
 村や藩の作事に借り出される大男の威丈夫。
バルトロマイ:兼子(かねこ)
 藩士による農村復興事業に従事していた。武士の面子が邪魔して、農作業に本気で取り組んでいなかった。
マタイ:午平(ごへい)
 代官所に出仕していて、年貢を集める役についている。
 村人の嫌われ者。
トマス:数馬(かずま)
 藩士による農村復興事業に従事していた。藩士の三男であり、家督の相続が望み薄なので、新田開発で知行地を得ようと目論んでいた。
 農業に関して知識が無いので、猜疑心の塊となっていた。
 伊佐治の死後、共同体としての農村のあり方に気づく。
アルファイの子ヤコブ:八十治(やそじ)
 母親同士が姉妹でったので、伊佐治の従弟になる。
タダイ:多田(ただ)
 先祖は、戦国時代の鉄砲隊の隊長だったが、戦に破れて津軽に流れ着いて、湯段村で代々猟師と湯守をやっている。
 山間僻地に暮らしているので、年貢を米ではなく、炭で納めたいと伊佐治に相談していた。
熱心者のシモン:西門(にしかど)
 藩政改革派の急先鋒。土堂村の半地下になった牢に幽閉謹慎の身になっていた。
イスカリオテのユダ:碇村の重太郎(いかりむらのじゅうたろう)
 伊佐治の支援者にして、活動の下働きを担っていた。
 伊佐治を助けたい一心から、役人に伊佐治の保護を求めるが裏切られる。失意のうちに首をくくる。
バラバ:弥三郎
 伊佐治と共に捕らえられるが、弥三郎は年貢の減免を全面に出し、民衆には大いに人気があった。
 恩赦で開放されるが、伊佐治の訴えが後に正しいことを知る。
百人隊長:本多東作久貞(ほんだとうさくひさただ)
 伊佐治の訴えが正しいことを知る。
 後に子孫が牧師になる。
村医者:澤野順庵(さわのじゅんあん)
 農民として暮らしながら、地域医療に取り組む。
 伊佐治の事跡を書き留める。
 とにかく子沢山。人だけでなく、農耕に使う牛馬や犬や猫までも、治療する。
ピラト:中田長助(なかたちょうすけ)
 伊佐治が集会を開いた村の代官。
ヘロデ王津軽寧親(つがるやすちか)
 伊佐治が主導した一揆の際の藩主。良き意見には、身分のわけ隔てなく耳を傾ける。
 伊佐治の助命を許可するが、間に合わなかった。
  いやぁ、ストーリー展開が大よそ決まっているので、登場人物も早々と決まる。これで、だいぶ性格付けができるかな(^^?)
 これで、色々なエピソード書けると、いいな(^^;)/

2017年3月20日月曜日

無名の殉教者 - 第1部脱出編(天の巻):登場人物


第1部は、ほぼ着想だけで人物設定ができていないが、第1部と第2部連続する登場人物がいるので、その辺を足がかりに設定してみる。

三浦珠(みうらたま)
 三浦半島を勢力下に置く三浦一族の老婆。珠女(たまじょ)、珠子(たまこ)と記録されることもある。洗礼名はマルタなので、皆からマルタ様と呼ばれる。
 フランシスコ会が三浦半島に設立した教会の信徒だったが、弾圧を逃れて江戸に出た。一時、浅草教会に身を寄せていたが、徳川秀忠の命令によって、教会、修道院、病院の一切の施設を破壊されると、善造を補佐役にして津軽を目指して逃避行を始める。
 逃避行の途中で友蔵を拾い、津軽まで連れて行く。本人は、岩木山が見えるところまで来て、死んでしまう。墓は丸田森と呼ばれ、切支丹の祈りの場となった。
 出エジプト記モーセに相当する。
友蔵(ともぞう)
 息子に山に捨てられたと行っているが、実は独り者の老人。人をだましては、調子の良いことばかりを言う。足腰が立たないと言っていたが、津軽に到着して途端、すたすた歩く。
 弘前に至っては、築城工事や河川改修工事の賄い方(炊事係)の手伝いに従事する。娘か孫ほど年の離れた地元の女と夫婦になる。七人の子供に恵まれ、最期は大往生となる。
 第1部の重要な語り部。
大和の薬師:大和屋パウロ善造(まやとやぱうろぜんぞう)
 モーセの跡を継ぐヨシュアに相当する。
 第1部と第2部を通じて登場する。第1部では、南蛮医学を学び医学,調剤に長け、ヨーロッパの科学技術を身につけた切支丹。浅草教会の取り壊しに遭い、弾圧を避けて津軽に逃げ込む。
 第2部では、切支丹信徒の代表者である。病院建設,孤児院の運営,河川の改修工事,治水工事,新田開発等の事業を成し遂げた大人物で藩からも一目置かれていた。
信州の浪人:丹下豊後(たんげぶんご)
 第1部と第2部を通じて登場する。第1部では、浅草の旅籠で仇として追ってきた笹川兼六の妻おせんとその娘を惨殺して逃亡する途中、浅草教会の取り壊しに遭遇し、津軽を目指して逃げる切支丹と行動を共にした。
 第2部では、切支丹の一斉検挙で捕縛されるが、正体を明かしたところ笹川兼六の次の娘に討たれる。
 第2部における重要な語り部。
そーなんだよなぁ(^^;)
 どのルートを通って津軽まで逃げるのか?
 当然、途中では海が割れる場面も欲しいが、津波の引き波で底が見えた海岸線を逃げることになるけど、どこの場所が相応しいかなぁ(^^?)
 逃避行を手伝う切支丹の村人とか、関守の役人に追われて海に出るのかな?
 山の中で一行が道に迷う場面では、一陣の風とともに蚊柱(かばしら)が現れて、進路を導く。
 逃避行する一行は、幼い子供たちは、馬に乗せ、歩ける老人は、杖をつき、歩けない老人は、担架に乗せて運んだ。

 ・・・と、思いついたことを書き留めておかないと、忘れる(^^;)

2017年3月19日日曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):登場人物


 以前書いた登場人物の設定は、第1部と第3部が未分化だったので、今回整理してみる。
 まだ登場していないが、出してみたいキャラも含まれている。

弘前藩初代藩主:津軽為信(つがるためのぶ)
 南蛮貿易を誘導するためにキリスト教の宣教師と接触するが、愛妾や男色が禁じられているので、興味を示さなかった。
弘前藩二代目藩主:津軽信枚(つがるのぶひら)
 十三歳で洗礼名ヨハネとしてキリスト教徒になる。ただ、本人は都の流行り物程度の認識しか無かった。しかし、この切支丹大名であることが、津軽こそ切支丹にとって信仰を守れる「約束の地」であるとの伝説が生まれた。
武蔵の浪人:成田喜八郎良義胤(なりたきはちろうよしたね)
 忍城の戦いの後、一族は流浪するが、関が原の合戦で敗れてものの、津軽家に保護され召抱えられる。
大和の薬師:大和屋パウロ善造(まやとやぱうろぜんぞう)
 モーセの跡を継ぐヨシュアに相当する。
 第1部と第2部を通じて登場する。第1部では、南蛮医学を学び医学,調剤に長け、ヨーロッパの科学技術を身につけた切支丹。浅草教会の取り壊しに遭い、弾圧を避けて津軽に逃げ込む。
 第2部では、切支丹信徒の代表者である。病院建設,孤児院の運営,河川の改修工事,治水工事,新田開発等の事業を成し遂げた大人物で藩からも一目置かれていた。
切支丹医師:五島如庵(ごとうじょあん)
 善造亡きあと切支丹信徒をまとめ、天寿を全うする。後に藩医となった。晩年は大いに家族に恵まれ幸福な死を迎える。
信州の浪人:丹下豊後(たんげぶんご)
 第1部と第2部を通じて登場する。第1部では、浅草の旅籠で仇として追ってきた笹川兼六の妻おせんとその娘を惨殺して逃亡する途中、浅草教会の取り壊しに遭遇し、津軽を目指して逃げる切支丹と行動を共にした。
 第2部では、切支丹の一斉検挙で捕縛されるが、正体を明かしたところ笹川兼六の次の娘に討たれる。
 第2部における重要な語り部。
侍大将:神権太夫柾時(じんごんだゆうまさとき)
 鎌倉時代の津軽大乱(安藤氏の乱)の時、関東から派遣された武士団と共に津軽に来た諏訪神社の宮司の末裔。
 生まれたばかりの一人息子を病で失い嘆き悲しむが誰も心を癒す者はいなかった。善造だけが共に悲しみすさむ権大夫の心に寄り添った。それから、篤信の切支丹信徒となった。いつまでも武力でのし上がろうと考えていたが、戦のない平和の世の中にあって適応できなかった。善造亡き後は如庵を助けて切支丹農民の命脈を保つ。
権大夫の妻:あや
 またの名を綾女(あやめ、あやじょ)と言う。
 生まれたばかりの子供を失い、失意のうちに農民たち子供を預かり乳母となる。権大夫を陰で支えながらひっそりと息を引き取る。
弘前藩士:佐々木助三郎政義(ささきすけさぶろうまさよし)
 藩内では民政担当。切支丹擁護派の代表格。
 かつて友人を誤って死なせてしまった経験があった。悔やみきれない思いから仏門を志したが、長兄が夭折したため還俗して家督を継いでいた。
弘前藩士:工藤格之進輔清(くどうかくのしんすけきよ)
 切支丹保護反対派の家臣の代表者。
 一国一城令により不要となった築城用地を寺町に転用することを進言する。
 切支丹処刑の検分役人の接待係りに着く。
ペテロ岐部(きべ)
 ローマで神父となったペテロ活水岐部神父。津軽の切支丹信徒を励ましに度々訪れる。
ん~、切支丹でない農民だけど、元は豊臣方の武将一門とか、宇喜多休閑なんかもいたなぁ(^^;)
 騒ぎを起こす切支丹とか、切支丹の集落で出会う若い夫婦や、老婆、まだまだ足りない(^^;)/

 待てよぉ。南部家旧臣には、小山内、一戸、石川、町田かなぁ。
 鎌倉公方派遣の関東武士団の末裔は、地名に名前が残っているから、小山、熊谷、川越、三浦、葛西、相馬・・・
 津軽家家臣には、一町田、西舘、奈良岡、大道寺、工藤辺りかなぁ(^^?)

2017年3月18日土曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):ねぷた伝説


 ねぷたのルーツに関して、幾つかの伝説がある。初代藩主・津軽為信公が京都で披露した大灯篭とか、蝦夷(えみし)征伐に来た坂上田村麻呂が蝦夷をおびき出すために作ったとか・・・
 おびき出し系の伝説で、山に逃げ入った賊をおびき出すために大きな山車を作って賑やかにお囃子を鳴らすと、次々と賊が出てきて一網打尽にできた。
 まぁ、いずれの説も、この道の第一人者の松木明知氏によって、否定されています。

 ただ、私にはこの『山に逃げ入った賊』って辺りがちょっと引っかかります。この賊とは、切支丹だったのではないか?
 ・・・と言って、新たな物語の始まり・・・

 三組六人の切支丹の処刑の後、弾圧が厳しくなると村を捨てて山に逃げたのではないか。この山って、ひょっとすると弘前藩所有の尾太(おっぷ)鉱山だったのではないか。以前、親父殿から聞いたことがあるのだが、江戸時代の尾太鉱山に多数の切支丹がいたことを・・・
 弾圧派は、逃げた切支丹をおびき出すために予ねて没収してあったマリア像を持ち出して、囮に切支丹を嫌う村人を使って村に隠れていた切支丹を脅してマリア像を担いで切支丹の村々を練り歩かせた。すると、ほかの村に隠れていた切支丹のみならず、尾太鉱山に逃げ込んでいた切支丹まで捕らえられた。
 卑怯な手口に怒る切支丹に好意的な村人たちが、マリア像を取り返した。これらの村人は、これは観音様だと言って、御輿に担いで村々を練り歩いた。切支丹に好意的な村人たちが切支丹を救い出すための精一杯の抗議行動だった。切支丹に好意的な村人たちにとって、農繁期の働き手である切支丹を取り返しかったのだ。
 もはや、切支丹を留め置く理由が無くなった。切支丹が開放された時、白磁のマリア像は粉々に砕け散った。しかし、切支丹は嘆かなかった。切支丹に好意的な村人たち勧めで、村の神社の扉の内側に聖母子像を描いた。これに毎週礼拝した。そして、「雪のサンタマリアの御祝日」には、この板を担いで、村々を練り歩いた。
 しかし、切支丹を嫌う村人によって、この扉も破壊されてしまった。切支丹は気づいた。形あるものは壊されると・・・
 そこで、「雪のサンタマリアの御祝日」の日にだけ、蛇籠を作る技術を応用して人型の灯篭を作り紙を張った。祭が終われば、あの処刑場があった川原で燃やした。洪水に備えて蛇籠を作る技術を伝承しなければならないので、正に一石二鳥の効果だった。

弘前ねぷた 見送り絵:慈母観音

 やがて未曾有の大洪水が、切支丹の村を押し流した。後には何も残らなかった。ただ、人々の記憶には、大きな人型の灯篭が残った。
 およそ100年後、京都からやってきた織工とその家族が、弘前藩第五代藩主津軽信寿公に灯篭行列をお見せする際、この大きな人型の灯篭のアイディアが蘇った。ただそこは、武家の祭りとしての体裁を取り、武者人形を模して造作された。ただ、見送り絵としてマリア像の名残で美人図がそこにあった。
 信寿公、大いに気に入り、もって励むようにと、お墨付きを頂き、かくて農民の祭りであった「眠り流し」は、町人の祭り「ねぶた」へと変容していった。

 ・・・と、私は思うね。こちっがドラマチックだよ(^o^)/

2017年3月17日金曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):71名の流人引取り


 京都から津軽に流罪になる流人を引き取りに派遣された津軽の役人、京都で罵声を浴びた。京都には、津軽屋敷があったので、そこから数名の藩士が受け取りに行き、流人に縄を掛けようとすると、京都側の役人が言う。

「あぁ、これだから田舎侍は困る。
 この方を存ぜぬか?
 縄をかけぬとも、逃げはせぬ。
 そのような、お方ではない。」


 津軽の役人は言い返した。

「どのような方であっても、当方、流人を預かりに来たので、
 流人として縄をかけて同道致す。」

 更に京都の役人は呆れた様子で言うのだった。

「この者は、流人なれど身分卑しき者にあらず。
 身に着けている物で、分からぬか。
 丁重に扱われよ。」

 どーやら、縄はかけなかったようですが、頭を剃って流人として津軽まで連行したようです。
 京都と言っていますが、正確には四国や播磨で捕縛した切支丹を大阪に集めてあって、その人たちを含め、京都で捕縛した切支丹や、高山右近の口利きで加賀藩に世話になっていた切支丹などが、津軽に流罪になった。この者たちは、平信徒であっても、影響力があると見られ流罪になった。
 恐らくは、鯵ヶ沢で上陸したあと、完成したばかりの弘前城に連行され、二代目藩主津軽信牧から慰労された。衣類や農具、食料などが支給され、今の鬼沢地区を耕作地としたようです。更に大身の者は、弘前城下、白銀町に備前町を作ったり、屋号を備前屋とする商家まであったらしいです。

 この一件から三年後の元和三年(1617)の8月4日にこの時の流人の中から三組の夫婦、六人が処刑されている。藩としては、貴重な労働力としてのキリシタンを処刑せずに懐柔策をとったようだ。
 更に、200年後、困窮する農民を救うため立ち上がった代理の庄屋である若者も、この鬼沢村の者であった。度重なる飢饉や疫病のまん延、岩木山の噴火などの自然災害で、切支丹の痕跡すら全く無くなっていた。それでも・・・

神は、人々に回心を求めるために、一人の若者を召し出した。

 ・・・と、私は思う。
 こじ付けと言われれば、それまでだが、神が与える恩寵は常に我々の身近な所に在りながら、中々気づきにくいと思う。
 或る事象があって、それを如何に感じ理解するか?
 我々は、試されている。

2017年3月16日木曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):拒絶する村


 この部分の元になったネタは、オウム真理教の事件です。
 日本で初めて”カルト”と言う言葉が、使われだした頃に着想を得た。

 切支丹の村は、一箇所ではなかった。到来して間もない頃は、出身母体ごとに小さな集落を形成していた。それも、岩木川の左岸の僅かな丘陵地帯に集中していた。だが、中には100年以上も昔の使われていない古い砦に、居を構えた切支丹もいた。
 彼らは、従来の主従関係を維持したままだった。そして、彼らの頭領が、帳方を兼ねており、頭領の親族だけで信徒組織の重要な部分を担っていたが、支配的で独善がまかり通っていた。
 頭領の従者たちは、砦の周りの荒地を耕し始めた。頭領は、砦の空堀に水を通すために、小さな小川の開削に従者の一部を当てたが、思った成果が上がらなかった。絶対的に人手が足りなかったのだ。しかし、頭領はそのことを認めなかった。他の集団の干渉を受けたくないのだった。

 ある年の夏は、酷い日照りが続いた。更に追い討ちをかけるように、夏にもかかわらず冷涼だった。元からの地元の農民だったわけではないので、秋の収穫はわずかだった。規定の年貢をやっと納めると、自分たちの口に入る米はほとんど無かった。
 窮状を見かねた役人の佐々木と、帳方頭の善造を伴ってこの集落を訪れた。だが、門は固く閉ざされ、佐々木ら一行は追い返されてしまった。間もなく冬になった。これまでに無いほどの大雪になった。
 善造たちも、いくつもの集落で雪を片付けたり、家の補強などしていて、この集落まで手が回らなかった。春になって、再び佐々木は善造を伴って、この集落を訪ねると、雪に押しつぶされた家が累々と連なっていた。ほとんど者は、飢えて亡くなっていたが、押しつぶれた家の下敷きになって死んだ者もいた。唯一潰れていない家では、頭領が切腹して果てていた。
 傍らに頭領が書き残した文があった。

 この度の行状、我が不徳の致すところ。
 我に拘る余り、下々の者に心至らなく、惨状となる。
 この責めは、我が身にあり。
 武士たらん自ら、自刃する。

 佐々木らは、遺体を懇ろに埋葬した。潰れた家は、取り壊され新たな村作りに使われた。砦も、村の鎮守の社となった。開削途中の川は、堰となり後の新田開発の足がかりとなった。


 この集落は、実在の集落を念頭に置いて思い描きましたが、ほとんど創作ですね。
 ただ、モデルにした集落には、不思議なコトがあります。それは、爺さんが多いことです。昔から地元で生まれ育った男性は、いずれも長生きなんです。ところが、村を離れると、そんなに長生きでもない。それから集落の外から嫁になってきた女性は、足を怪我して、連れ合いより長生きしない。
 ん~、何か呪いでもあるのかな(^^?)

2017年3月15日水曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):御下命


 弘前藩は、外様大名ながら幕府から重用された。その証しとして、二代目藩主の津軽信牧の正室に徳川家康の養女・満天姫を迎えた。だが、既に石田三成の娘・辰姫が正室だったが、側室として弘前藩の飛び地・大舘(群馬県太田市大舘町)の陣屋に留め置くことになった。
 そして弘前には、東照宮が建立され、監視役として天台宗の僧侶が、満天姫の随員として同行していた。
 五万石にも満たない地方の小藩の弘前藩を、幕府はなぜ重用したのか?
 それは、未だ勢力を維持していた伊達政宗に抗するためであった。伊達家謀反の場合、北側から攻め入ることを幕府に期待されていたのだ。
 そのため、弘前藩がどれほどの忠誠心があるか試すために、保護していると噂の絶えない切支丹を弾圧せよと、幕府から命令されるのだった。
 これは、拒否できない命令だった。更に、幕府からは検分役人を差し向けると言う念の入り方だった。

 弘前城内にこの一件が届くと、弾圧派は勢いを増していた。しかし、安定した米の増収で健全財政を運営したい擁護派は、劣勢になっていった。
 そんな城内のことを知らずに城外では、信仰を次の世代に伝えたい切支丹たちが、基督の再来が近いことを高らかに宣言して、布教活動を始めた。
 これには、藩の政策に恭順していた切支丹たちが、活動をやめさせようとしたことから、騒動に発展してしまった。

 擁護派の佐々木は、切支丹信徒を束ねる帳方の善造に全てを打ち明けた。
 幕府の命令で切支丹を弾圧しなければならないこと。この弾圧は、幕府への忠誠心の証しとしなること。そして、検分役人も幕府から派遣されてくること。
 佐々木は、正直に全てを包み隠さず全てを、善造に話した。善造は、大きくうなずいて言った。

「あい分かりました。
 この度の不祥事は、帳方である私の不行き届きであります。
 責めは、私が一身にお受けします。
 そして、真の切支丹としての範を示す事となりましょう。」


 佐々木は、不意を突かれたように、一瞬何を言われたか分からなかった。だが、並々ならぬ覚悟の善造を見て、はっと我に返った。

「そ、それは、困る!
 切支丹を束ねる者がいなくなっては、揉め事が増えるばかりだ。」


 善造は、落ち着き諭すように言った。

「帳方は、切支丹暦があれば、用は足ります。
 切支丹を束ねるのは、若い者でも年数を積めばできましょう。
 それよりも、切支丹信徒が一人もいなくなっても、心がこの地に残り行われることを

 私は望みます。
 そのためにも、切支丹の心、御大切心を示す良い場となるでしょう。」


 佐々木は、善造の申し出を受け入れた。

2017年3月14日火曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):丹下豊後


 この丹下豊後と言う男の記録は、年号に誤りがあったり、謎の多い人物です。
 私が接した資料では、遠藤周作の沈黙「切支丹屋敷役人日記」と同じくらい読めない部分でした。
 確かこの男、今の弘前市亀の甲町か、紺屋町辺りに住んでいたところ、切支丹の一斉検挙の際、捕縛された。検挙容疑は、地元の者である妻を切支丹に改宗させたことだった。
 ところがこの男、自分は切支丹ではなく、ただの仇持ちだと言うのだ。生国の信州に確認すれば、分かると言った。

 供述によれば、慶長十一年(1606)3月9日に信州巻田で笹川兼六と申す浪人を口論の末に斬殺した。更に江戸浅草前旅宿の亀屋にて女巡礼となっていた笹川の妻おせんとその娘を斬殺し、金品を奪い逃走中であった。
 この男は、浅草から逃避行する際、浅草教会の取り壊しに遭遇し、津軽を目指して逃げる切支丹と行動を共にしていたものと思われる。
 正体を明かしたこの男は、返り討ちにしたことで笹川一家はいないものと安心して、詳しい状況を供述したらしい。
 ところが、笹川には次の娘がいて、巡礼者となり、この男の後を追っていたのだった。
 やがてこの娘は、弘前にやってきて父の仇の丹下豊後を討ち果たし、信濃に帰っていった。残された丹下豊後の一家は、財産没収の上、追放となった。

 当時、信州の仇を津軽で討つことが非常に珍しく人々の記憶に残り、言い伝えとなったものと思われる。
 物語では、この男には浅草の教会が取り壊され、津軽に逃避行する切支丹に紛れ込み、途中で老人を拾う場面にも立会い、一行の精神的支柱の老婆が亡くなる場面にも立ち会い、最初の殉教者を見送る場面にも登場する。そしてなにより、模範的切支丹信徒を演じてもらう。
 この男を通じて見えてくる切支丹の姿に、現代の我々に繋がるものが見えてくると面白いと思う。

2017年3月13日月曜日

日本版『汚れなき悪戯』

 急に文章化したので、かなり欠落しているけど、とりあえずね(^^;)/


 映画で超有名な汚れなき悪戯だけど、何度か映像化されている。最も有名なのは1955年のスペイン映画、1991年にはイタリアでも製作された。アニメにもなったし、最近ぢゃメキシコが舞台になった映画もあるのかな(^^?)
 この物語を日本を舞台にして描いてみたい。フランシスコ会の修道院で男の子の捨て子拾って、諸事情から修道士が育てることになり、やがて物置小屋の屋根裏の大男に・・・
 なんて展開には、ならない(^^;)/
 修道院ではなく、修業道場を有する禅寺。時代も現代。

マルセリーノ
正人(まさと)、やんちゃで悪戯好き。5,6歳くらいになっている。
マニュエル
慎士(しんじ)、正人と同い年で仲の良い友達。
修道院長
老師、高齢だが意気軒昂。80代前半。
おかゆさん
典座、離婚経験があり、子供たちに会えない状況にある。40代。
具合悪いさん
老典座、高齢で寝込んでいることが多い。90代後半。
門番さん
求浄(ぐじょう)、東西霊性交流会の関係で、フランシスコ会の修道院から派遣された司祭の資格のある修道士。30代後半。
門番さんの相棒
導照(どうしょう)、求浄とはなぜか相性が良く、托鉢にもコンビで行くことが多い。寺の跡継ぎ。20代後半。
この道場は小さい。老師を含めても10人しかいない。
 求浄と導照が托鉢に出かけている途中で、巨大な地震に遭遇する。急いで寺に戻るが、瓦が落ちてきて近づけなかった。近くに避難していると、強い余震があり、木造のアパートが倒壊した。中から赤ん坊の泣き声がした。求浄と導照は、その赤ん坊を救出した。傍らには、若い男女がいたが、既に絶命していた。
 あとで分かったのだが、この若い男女は赤ん坊の親ではなく、学生ボランティアだった。倒壊したアパートで生存者を探して、被害に遭ったようだった。倒壊したアパートには高齢者しか住んでおらず、結局、赤ん坊の親は分からなかった。
 修行僧たちは、修行の妨げになるので、赤ん坊を施設に預けようとするが、地震直後の混乱で、どこも引きうけてくれない。仕方ない、寺でしばらく預かることにした。
 だが、寺は男所帯だし、地震で多数の家屋が倒壊して、檀家にも助けを求められない。それでも、幸運に草刈用にヤギを買っている檀家があり、それもメスで子供を生んだばかりだったので、その乳を分けてもらい、赤ん坊に与えた。

 正人は、やんちゃ盛りとなった。しかし、修行僧たちは、心配だった。母親のいない環境で育つことを・・・
 正人は、檀家の息子、慎士と友達になる。しんちゃんと呼んでいた。正人は、慎士の家族を羨ましく思うようになる。
 心配した求浄と導照は、托鉢に正人を連れていった。最初こそちゃんとくっついてきた正人だったが、飽きてきたのか縁日の出店の中に消えていった。それから悪戯が発覚して、大騒ぎに・・・
 それでも、愛くるしい小坊主ってことで、正人は街の人気者になった。

 正人は修行僧から近づいてはいけないと言われていた池に、慎士を誘って遊びにいった。ザリガニ釣りに興じていた。正人は大きなザリガニを釣り上げたところで、覗き込んでいた慎士が池に落ちた。とっさに正人は、池に飛び込んで慎士を池から出した。慎士は大声で泣き出した。正人は力尽きて、池に落ちていった。
 慎士の泣き声に気づいた修行僧たちが、池から正人を上げた。まだ、息があった。

「しんちゃは、大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ。安心して。」

 それを聞いた正人は、安らかに笑みを浮かべて死んでしまった。

カラオケ地蔵

 人気者の正人の死は、街中の悲しみとなった。そして誰からともなく、正人を模した地蔵を街のあちらこちらに建てた。
 カラオケボックスには、マイク片手のカラオケ地蔵。ガソリンスタンドには、給油ホースを持った給油地蔵。バッティングセンターには、バットを担いだ野球地蔵。学習塾にメガネをかけて読み書きする、勉強地蔵・・・

 冒頭、『汚れなき悪戯』「マルセリーノの唄」が流れ、街の至る所にいる可愛い地蔵の姿が流れ、やがて線香の煙の向こうに小さなお墓が見え、読経に変わり、鈴がなって物語が始まり、そして終わる。

2017年3月12日日曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):村の様子


 切支丹の村を前にして検地役人の会話から見えてくる村の様子。

佐々木
あの鍬を降るっている若い男女の素性が分かるか?
工 藤
兄に妹か?
佐々木
なぜそう思う?
工 藤
若く見えるが、夫婦なら赤子でも背負うなり、近くに置くなりしているものだ。それが、いない。
佐々木
あれは、子供が生まれて間もない夫婦だ。
工 藤
赤子は、親元にでも預かってもらっているのか?
佐々木
二人とも、両親を亡くしている。
工 藤
では、誰が赤子の面倒を見ている?
佐々木
一人暮らしの婆さんが、面倒を見にきている。
工 藤
身内の者か?
佐々木
いや、ここに村ができてからの者だ。
工 藤
頼って、いいものか?
佐々木
あの夫婦は、信頼しているようだ。
工 藤
他者とは、信用して良いものなのか?
佐々木
切支丹は、信用に足る何かを知っているようだ。
工 藤
それは何だ?
佐々木
御大切(ごたいせつ)とか言うが、何のことか、分からぬ。
工 藤
お前でも分からぬものあるとはな。
若い夫婦は、作業の手を休めて、役人に深々とお辞儀をした。実に人の良さそうな夫婦であった。佐々木が、切支丹の七日講には行かないのかと、訪ねた。だが、夫婦は自分たち子供の世代以降は七日講には、出てはならぬとのことだった。それよりも、慈悲の所作の実践を勧められているとのことだった。
 また、若い夫婦には、開けた農地が割り当てられ、多くの村人は、更に荒れた土地の開墾に従事していた。

2017年3月11日土曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):検地役人の派遣


 第1部の終わりで切支丹の村が形成されるところで終わり、第2部では安定した村となっている。
 そこに藩の役人が、検分に訪れる描写・・・
 役人二人に検地に使う小者数名を引き連れて、岩木川を渡る。役人二人の設定は・・・

佐々木
民政担当。普段から切支丹との付き合いがある。
工 藤
作事方、今回は検地担当。一族で重臣を務める。切支丹は元より南部家旧臣とも付き合いが無い。

工 藤
かの切支丹どもはいかなる法力を用いて、あの美田を作り出したのだ?
佐々木
何でも、御大切と申すものを大切に致せば、かように神の加護によって美田を賜ると、切支丹どもは申しておりました。
工 藤
されば、その御大切はいかなるものか?
佐々木
切支丹どもの申すところによれば、アガパオと申すものらしく、これを一心に大切に致せば彼らの神が喜び、かような果報があると申しておりました。
工 藤
してその、アガパオとは何だ?
佐々木
はい、切支丹どももうまく説明が付かぬようでしたが、色々と話を聞けば・・・
『我が身の如く汝を大切にすると言う行い』を指すのだそうです。切支丹どもによれば、汝とは接する人であり、切支丹の神なのだそうです。
工 藤
ほお、ただの人と神を同格に扱うとはまったく変わっておるな。
佐々木
はぁ、かように拙者が調べにまいれば、誠に懇ろにもてなし、痛み入るほどでした。
工 藤
それは、おまえが役人であるから丁重であったのではないか?
佐々木
いえいえ、同じ村でも切支丹でもない者にも懇ろにでした。
工 藤
宗旨を異にしても同じ村人なら、仲が良いのかのう。
佐々木
拙者がもっとも驚きましたのは、名も知らぬ旅人にでも宿を貸し、食事を供することでした。
工 藤
ほお、そんなことをして何になるのだ。そのような輩が恩を返すとでも言うのか。
佐々木
はぁ、拙者もそのように問いただしたところ、人の恩を受くるためにやっているのでは無いと申しておりました。
工 藤
では、何のために?
 少し間を置いて躊躇うように佐々木はいった。
佐々木
・・・、切支丹の神のためだそうです。切支丹とは『神が喜ぶことを行い、その行いが自らの喜びとなるよう努める』ものであると、申しておりました。
工 藤
それは随分と神とやらに忠義なことよのお。では、我らが殿には従わぬと申すのか?
佐々木
・・・、まことに申し上げにくいのですが・・・
この世のいかなる殿にも仕えぬと申しておりました。切支丹が仕えるのはデウスご一体のみであるとも、申しておりました。
工 藤
そのデウスとは何者ぞ。
佐々木
切支丹の神にてありまする。
工 藤
では、その神に付き従い我が殿には恭順せぬと言うのか。
佐々木
いえいえ、我が殿のご意向がその神の喜ぶところに即しておれば、切支丹も喜んで従うと申しておりました。
工 藤
おお、それでは、その神の喜ぶところとは一体何だ。それを我らが知れば、切支丹どもを操れるではないか。
佐々木
いや、残念ながら、それは切支丹信徒でもなければ解せぬことで、我らがおいそれとわかるものではないらしいのです。
工 藤
まぁ、いずれにしても益々監視を緩めるわけにはいかぬな。
おまえは切支丹が功力(くりき)をもって果報として美田を得ていると思うか。
佐々木
いえいえ、行らしきものと言えば七日に一度の講くらいのことで、あとは情け深いところが目に付くらいのものです。
工 藤
情け深いだけで田畑を耕せるものか、わしにはわからんな。
 工藤は切支丹の行動が不可解に思えた。心の働きなどつまらぬ事と思っていたのだろうか。他者を出し抜き追い落として生きてきた工藤には理解できなかった。
 佐々木はかつて友人を誤って死なせてしまった経験があった。悔やみきれない思いから仏門を志したが、長兄が夭折したため還俗して家督を継いでいた。

 結局切支丹でなければ開墾地の田畑は維持できないと、藩では結論を出した。そのため、後からやってきた入植者と切支丹が同じ村に共存することになった。
 切支丹は不平や不満を漏らさず一途に働いた。それは役人の監視の有無によらなかった。だが、新参の入植者は役人の目を盗んでは怠業していた。宗旨の異なる切支丹の近くにいるだけで気味が悪く不愉快なためであった。そのため、切支丹が耕した田畑をすべて耶蘇畑(やそはた)と呼んで忌み嫌っていた。

2017年3月10日金曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):追悼

弘前ねぷた:見送り絵,慈母観音

 弘前で初めて切支丹が処刑された日は、元和三年(1617)の8月4日だった。
 3組の夫婦六人のキリシタンが岩木川河畔、現在のニッカ工場近くの通称、四ツ堰あたりで処刑されたとされている。
 ここで、”8月4日”が重要になってくる。現在では、この日はねぷた祭りの中日になっている。本来、ねぷた祭りは、七夕のお祭りなので、旧暦の七夕に重なるように行われていた。すると、この”8月4日”と重なってくる。偶然と言えば、それまでだけど(^^;)/
 そして、この”8月4日”は、切支丹信徒にとっても重要な日なのだ。翌8月5日は、現代のカトリック教会では、聖マリア教会の献堂”と言われていて、当時の切支丹には雪のサンタマリアの御祝日”と呼ばれ、盛大なお祝いがされていたたそうです。
 聖劇を演じたり、聖歌を歌ったり、聖母像を担いで村内を練り歩いたりもした。実際の祭りは、カトリック教会の伝統として前日の夕方に始まる。”8月4日”は祭りの始まりの日に当たる。

 ここからは、創作だが(^^;)/
 処刑者を助けるべく助命嘆願した農民たちが、その命日に切支丹信徒と共には”雪のサンタマリアの御祝日”を共に祈り、共に祝うようになる。
 だが、それも規制され、マリアの板絵の行進となり、マリアの灯篭へと変化する。やがて目立たなく見送り絵となり、今に続く・・・

Madonna della Neve 2013, uscita dalla Basilica

 だが、実際には、ねぷたの運行が記録に登場するのは、この一件の100年後のことになる。
 京都から絹織物の工人を津軽に招聘することに尽力した茶人の野元道玄の一周忌法要となる享保五年(1720)に、津軽信寿公が報恩寺で「眠流」を高覧したと記載されています。
 詳しい記述が無いのでよく分からないのですが、子供たちが手に小さな火器を持って歩いたとありますから、恐らくは手に持てる位の小さな灯篭ではなかったと思います。
 更に2年後、享保七年(1722)の三回忌法要の際には、津軽信寿が紺屋町の織座で「祢むた流」を高覧したとあります。この織座は、現在の聖母被昇天修道会弘前修道院の場所にありました。そして、あの切支丹の処刑場の近くになります。
 この時点で、隊列を組んだ大人が大きな灯篭を曳いて歩いたようです。
 切支丹の村があったであろう場所は、この当時、織座で作られた絹織物を保管する蔵が立ち並んでいて、蔵町と呼ばれたいたようです。
 これほど濃厚な関係があって、何も影響が無いとこもなかろうに・・・

2017年3月9日木曜日

今様桃太郎噺(いまようももたろうばなし)

 このお話は、ここまでしか思いつかなかったので、超短編です。
 誰か、この続きを考えてくれると、イイかな(^^;)/

 さう言へば、桃太郎が鬼退治ではなくて、桃太郎が、村人がいかに鬼に困っていて、今後の鬼の活動を転換させるべくプレゼンするのもあったね(^o^)/


 あるところのケアハウスにおじいさんとおばあさんがいました。
 おじいさんはシルバー人材センターの仕事で公園にゴミを拾いに、おばあさんはコインランドリーに洗濯に行きました。
 おばあさんは洗濯が終わるのを待っていると、奥の方で大きな声で赤ん坊が泣きました。赤ん坊は藤で編んだバスケットに入っていました。一緒に桃の飲料水とメモが入っていました。
 メモにはガングロのコギャルと茶髪でフリーター風のにいちゃんのプリクラの写真が張ってありました。どうやら、捨て子だと気付いたおばあさんは、その赤ん坊をケアハウスへ連れて帰りました。
 おばあさんはおじいさんに相談しました。おじいさんは警察に届けようと言いました。おばあさんも賛成したので、おじいさんとおばあさんは赤ん坊を抱いて警察に行きました。

「もしもし、お巡りさん。コインランドリーで赤ん坊を拾いました。」
「忙しいんだよ。何、赤ん坊?
 ここは関係無いから、役所の福祉課にでも行きな!」

 困ったおじいさんとおばあさんは、赤ん坊を連れて役所の福祉課窓口に行きました。すると、窓口には誰もいませんでした。困ったおじいさんは大声で呼びました。すると、奥の方から腕章をした恐そうな人が出てきて言いました。

「今、贈収賄容疑で家宅捜査中だ!
 帰ってくれ!」

 おじいさんとおばあさんは本当に困りました。道行く人にこの赤ん坊のことを尋ねても皆知らぬふりをするばかりでした。誰もこの赤ん坊を引き受けてくれないので、おじいさんとおばあさんは赤ん坊をケアハウスで育てることにしました。おばあさんは赤ん坊に名前が無いことに気が付きました。おばあさんはおじいさんに名前を考えてもらいました。すると、おじいさんは・・・

「桃の飲料水と一緒にいたから、桃太郎にしよう!」

と、言いました。ケアハウスの皆が賛成したので、この赤ん坊は桃太郎と名付けられました。

 桃太郎はケアハウスですくすくと成長しました。その間に何人かのおじいさんやおばあさんも亡くなりました。桃太郎は亡くなったおじいさんやおばあさんから沢山の優しさをもらいました。

 やがて成長した桃太郎は、ケアハウスの立ち退きを要求する地上げ屋と呼ばれる恐い鬼を退治に奮い立ちました。腰には無農薬で遺伝子操作もしていないキビからおばあさんが作った団子を付けて出陣しました。
 ところが、お供に付くはずのイヌは野犬狩りに遭って動物保護センターへ。サルは害獣として動物園へ。キジは鳥獣保護法により保護ケージに入れられてしまいました。

 独りぼっちの桃太郎はいかに・・・

2017年3月8日水曜日

無名の殉教者 - 資料から見える切支丹像

40年近く切支丹関連の資料を漁っていて、見えてくる津軽の切支丹像・・・

 津軽で初めて処刑された3組の夫婦6人。この処刑は、藩の判断ではなく、幕府からの命令だった。
 処刑の理由は、単にキリスト教を信じていたためではなく、騒ぎを起こしたためであるらしい。
 正確には、藩は騒ぎを起こしたことを咎めたのだが、判断を幕府に求めたところ、祖法で禁止されているキリスト教を信じるは、心得違い甚だしく処刑せよ。と言うことだったらしい。

 津軽の切支丹は、一切の布教活動を禁じられた上に、穏便に暮らすことを条件に住むことを許されていた。
 それが一部の切支丹が、派手に街宣活動を行ったことから、騒動に発展してしまった。更にこの騒動が、幕府の隠密の目に触れたことで、津軽では切支丹を隠避していると、幕府から嫌疑をかけられることとなった。

 さて、処刑当日、見せしめのため切支丹信徒は全員、村とは岩木川をはさんだ対岸に作られた処刑場に集められた。
 一同の者、固唾を飲んでひたすら黙して処刑を見つめた。藩との約束には、忠実だった。
 だが、この状況に異を唱える者がいた。同じ村に住みながら、切支丹でない者だった。苦楽を共にした者を見殺しにできなかったのだ。彼らの助命嘆願も空しく、処刑は粛々と進めれた。
 磔柱の下には大量の薪が燃やされ、いぶされる中、磔柱の上から大音声で語る切支丹・・・


「我ら一同、皆々様をほんのひと時も恨んだことはありませぬ!
 我らが旨に拠りて、お受け致すまでのこと。
 今宵、我らはらいそで相まみえん!!
 イエズス、マリア、・・・
 イエズス、マリア、・・・」

 切支丹でない者たちから、念仏が始まった。すすり泣く声に混じって、低く、大きなうねりのように続いた。
 燃え尽くされた遺体は、棍棒で打ち砕かれたのち、川に捨てられた。遺物となる遺骨やメダイや十字架を拾うために、切支丹たちは川に入った。
 切支丹でない者たちは、残された遺体の一部を、周辺の土や小石も一緒に集めて、墓にした。

 資料からは、処刑された人が必ずしも、騒ぎを起こした人ではない。
 一連の騒動の責任をとって、信徒の代表が処刑されたようにも見える。

2017年3月7日火曜日

無名の殉教者 - キーワード

 使われないかも知れないけど、とりあえず重要なキーワードを記録しておく


  1. 十三森(十三塚)
     13体の地蔵が祭られていたのでこの地名となった。と、言われている。
     しかし、その地蔵が持つ錫杖の先には「十」が付き、袈裟には「∴」の印が刻まれていた。「十」は十字架を表し、「∴」は三位一体を表していた。この森は切支丹の信心講が行われた跡であった。

  2. 三経塚
     古い時代に三巻の経典を埋めた事に由来する。と、言われている。
     ところが埋めたであろう経典は一切出土せず、「∴」が刻まれた板碑が多数出土していた。

  3. 土師畑
     焼き物用に土を採取した畑。と、言われている。
     切支丹を密告して得た報奨金で求めた畑地だった。当初は「恥畑」であった。

  4. 磯畠
     古くは耶蘇やそはたと言われ切支丹が投入された開墾地。山中であるにもかかわらず、「磯」とは奇妙な地名であった。
     古い時代の食器の破片などが出土する。中には白磁で中国製と思われる聖母子像が出土していた。その幼子は片手に白い鳩を持っていることから、幼子イエスと聖母マリアであると判明した。

  5. 御大切様
     樹齢千年になるタモの大木。木にできた沢山の節くれだったコブが赤ん坊を抱く女性の姿に見えることから、安産・子安を願う村人の信仰を集めていた。

  6. 同行地蔵
     村人の喜び悲しみに寄り添うために現れた地蔵尊として村人の信仰を集めるお地蔵様。そして、白い十字の縫い付けのある袈裟を身につけていた。
     この袈裟は毎年12月になると新しいものと取り替える。しかし、村人の誰一人としてなぜ12月に取り替えるかは知らない。

  7. 舛堰
     四つぜきとも呼ばれ、かつて切支丹の処刑場があった場所。処刑場に似つかわしくないほどに風向明媚な場所。清らかな水が川に流れ、美しい姿の山が見下ろしていた。
     この川は殉教者の血を飲み込み、あの山は殉教者を悼む人々の声を聞いたのだろうか。

2017年3月6日月曜日

無名の殉教者 - ストーリー展開の元ネタ

この物語、三部作前編を貫く展開の元ネタは、禅画の十牛図なんです。
 禅による悟りに至る道筋を示した絵なんですが、私はこの絵の展開をストーリーの展開に使いたい。

 十牛図のざくっとした説明でもしよーかと思ったけど、文字化けを起こす文字が含まれているので、詳しくはリンク先のWikipediaでも良く見て下さい。

自由訳-十牛図-新井-満

 まず冒頭は、弾圧を逃れて信仰を守る場所を求める旅に出る。
 苦難の末、約束の大地に到達する。
 信仰を同じくする人々との出会い。更に反目しあう人々との衝突。そして、和解。
 切支丹信徒として、堂々と信仰を証し、殉教する人々。
 従順であるがために、藩の横暴な政策と度重なる自然災害で、一人の切支丹も類族もいなくなる。
 かつて切支丹が住んでいた村も、何の痕跡も無くなっている。それでも、「キリストの心」を実践する者が現れ、同じように死んでいく。
 最後には弾圧者の子孫が牧師となり、教会が建ち、ミッションスクールができる。

 まぁ、大雑把にはこんな感じのストーリー展開ですね。
 私としては、『十牛図』を知って、初めてこの物語に整合性が取れてきましたね(^^;)

2017年3月5日日曜日

無名の殉教者 - 第3部復活編(人の巻):代理庄屋の訴え

 蝦夷警備の支出が藩財政を圧迫し、折からの米の不作で年貢を満足に納めることができない状況が続いていた。
 困窮する農民たちを救済するため、藩に年貢の減免を村々の庄屋が連名で願い出ることになった。
 特に若い代理の庄屋に皆の期待が集まった。だが、老練な庄屋たちは、減免の手柄を独占し、村の支配を強化しよーと考えた。
 庄屋たちの訴えは、藩に聞き入られず、強訴に打って出た。年貢の減免と、飢饉に備えて米を備蓄する倉凛(そうりん)の管理を村に一任する許可を得た。
 倉凛の管理は許可されたが、年貢の減免は中々認められず、強訴の責任者を処罰することを条件に、認められた。
 処罰されることを聞いた庄屋たちは、一目散に逃げた。取り残されたのは、代理庄屋の若者だけだった。逃げた者たちは、年貢の減免ばかり訴えていたが、この若者は村々による相互扶助のために、倉凛の管理一任をを訴えた。



 訴状に目を通した藩主は、倉凛の管理を村に任せることで、早い救済ができると思い、代理庄屋の若者の処刑の中止を出したが、間に合わず処刑されてしまった。
 逃げた庄屋たちは、年貢の減免を自らの手柄のように吹聴していたが、わずか2年ほどで減免は失効した。だが、倉凛の米を飢饉の際に融通することで、後年の大飢饉でも、大規模な餓死者を出さなかった。
 大飢饉が去ったあと、あの代理庄屋の若者が訴えていた真意を知ることになった。

2017年3月4日土曜日

無名の殉教者 - 全ては『夢』から始まった。



 ジャス君が家出していた頃、確か2月の厳冬時期だった。
 夕方暗くなるまで岩木川の土手でソリすべりで遊んだ夜に、奇妙な夢を見た。
 その日の夕方、薄暗くなってから帰宅した情景と同じ夢だった。
 ただ違うのは、家の前に水を張った大きな木桶があった。その上に『何か』があって、通りすがりの人が木の柄杓でその水をすくって、その『何か』に向かって掛けていた。
 薄暗くて見えなかった。私は水掛地蔵か何かと思ったけど、木桶の上に地蔵なのか?
 と、不審に思いながら近づくと、『何か』は磔になっている人だった。既に死んでいるのか、ぴくりとも動かない。その人に向かって、凍りつくほど寒い中、水を掛けていた。
 私は小走りに玄関に入ろうと、磔柱の前を通り抜けようとすると、急に身体が持ち上がった。あばれても、そのまま上に上がっていく。眼下に磔になってうなだれた姿が見えた。髷を結っていて、水に濡れた着物を着ていた。
 すると次の瞬間、どすんと地面に落ちた。私は、わずかな時間だが、気絶していた。気がつき、顔を上げると、まだ木桶と磔柱の前だった。スポットライトが当たっているように、その人を照らし、顔は逆光で見えなかった。
 そこで、目が覚めた。実にリアルで不思議な夢だった。今にして思えば、あの姿は十字架上のキリストに酷似していたよーな・・・

 ちなみに、昔の弘前に切支丹がいて、現在の聖母被昇天修道院がある辺りが処刑場だったことを知るのは、中学になってからなので、この頃は、まったく知らなかった。

 さうさう、最近気がついたのだけど、あのソリ遊びをしていた場所が、江戸時代に作られた堰が元になった人工河川だった。

土淵堰
 http://midori.inakajin.or.jp/sosui_old/aomori/a/487/index.html

2017年3月3日金曜日

無名の殉教者 - 寄り道:津軽の化粧地蔵






 まぁ、一連の物語とは、接点が無いのですが、参考ってことで(^^;)/

 想像の域を脱しないのだけど、岩木川の流域では、度重なる川の氾濫で住民が何度となく入れ替わることがあったのは、想像できる。
 最初は素朴なお地蔵様が、あったのでしょう。その後、疫病のまん延や災害などから、村人がいなくなり棄村状態になっていたところに、流入してきた切支丹が派遣されてきた。
 切支丹はお地蔵様に祈りの対象として、十字の縫い付けがある袈裟をまとわせた。やがて、度重なる飢饉で、その切支丹も死に絶えてしまい、再び棄村状態になった。
 藩の肝いり事業として新田開発に従事する農民が住み着いた。その時分には、北前船による物流が盛んになり、空船のバラスト用に京都の化粧地蔵を積んで津軽まで来るようになる。貧しい農民たちは、自らの手でお地蔵様に化粧を施すようになった。

 この化粧地蔵たちは、数百年に及ぶ祈りの結晶かも知れませんね。


・津軽化粧地蔵巡り/青森県稲垣村など
http://chindera.com/tsugarukesyoujizou-0.html

2017年3月2日木曜日

無名の殉教者 - 第3部「復活編」:最終部分に入れたいエピソード





 40年ほど前に、地元紙に載ったエピソードなんですが、多分に記憶違いがあると思うけど・・・
 明治になってすぐの頃、弘前から藩士2名が、横浜に英語を習得する目的で遊学した際の出来事だと言う。
 確か、本多庸一と佐々木何某だと記憶している。
 この2名、今の横浜・元町の洋菓子店に立ち寄ったところで、店主にこんなことを尋ねたらしい。

「この菓子、どこのご家中に納めている?」

 かなり困惑した店主が言った。

「どこと申されても・・・
 お代を頂ければ、どちら様にでも、お売り致します。」


 そこで、佐々木が更に尋ねた。

「なれば、我らでも良いのか?」

 店主曰く・・・

「はい、お代さえ頂ければ、どちら様にでも。」

 佐々木を制する本多であったが、佐々木は本多に言った。

「これも良い経験だ。食おうではないか!」

 少々値は張ったものの、初体験の洋菓子はすこぶる美味かったらしい。
 後にこの佐々木は弘前で洋菓子店を開き、本田はバラ塾に入門して、受洗して牧師になった。

2017年3月1日水曜日

無名の殉教者 - 第3部「復活編」:登場人物の名前が・・・


中々、決まらない(^^;)

 地元の「民次郎一揆」に、イエスの受難を重ね合わせて描きたい。
 実在の人物の名前を出すと混乱しそーなので、旨い名前を考えなければ・・・

イエス:吉太郎
ペトロ:巌太郎
ユダ:碇村の重太郎
ピラト:代官
ヘロデ:城主

 くらいかなぁ(^^;)
 ちなみに私の父方の祖母の父親(曽祖父)は、由太郎です(^^;)/