蝦夷警備の支出が藩財政を圧迫し、折からの米の不作で年貢を満足に納めることができない状況が続いていた。
困窮する農民たちを救済するため、藩に年貢の減免を村々の庄屋が連名で願い出ることになった。
特に若い代理の庄屋に皆の期待が集まった。だが、老練な庄屋たちは、減免の手柄を独占し、村の支配を強化しよーと考えた。
庄屋たちの訴えは、藩に聞き入られず、強訴に打って出た。年貢の減免と、飢饉に備えて米を備蓄する倉凛(そうりん)の管理を村に一任する許可を得た。
倉凛の管理は許可されたが、年貢の減免は中々認められず、強訴の責任者を処罰することを条件に、認められた。
処罰されることを聞いた庄屋たちは、一目散に逃げた。取り残されたのは、代理庄屋の若者だけだった。逃げた者たちは、年貢の減免ばかり訴えていたが、この若者は村々による相互扶助のために、倉凛の管理一任をを訴えた。
訴状に目を通した藩主は、倉凛の管理を村に任せることで、早い救済ができると思い、代理庄屋の若者の処刑の中止を出したが、間に合わず処刑されてしまった。
逃げた庄屋たちは、年貢の減免を自らの手柄のように吹聴していたが、わずか2年ほどで減免は失効した。だが、倉凛の米を飢饉の際に融通することで、後年の大飢饉でも、大規模な餓死者を出さなかった。
大飢饉が去ったあと、あの代理庄屋の若者が訴えていた真意を知ることになった。
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