私には著作物をまとめるだけの才能が無いので、長年の構想をブログの形で載せます。 古くはシャープのワープロ・書院で書いていた。それもDOSファイルに変換したものの、フロッピーディスクが散逸してしまった。 自宅サーバでホームページやブログで載せたが、予備サーバが壊れてしまい、いつまで現状を維持できるかわからない。 そこで、外部のブログサービスを利用して残すことにした。
2017年3月14日火曜日
無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):丹下豊後
この丹下豊後と言う男の記録は、年号に誤りがあったり、謎の多い人物です。
私が接した資料では、遠藤周作の『沈黙』の「切支丹屋敷役人日記」と同じくらい読めない部分でした。
確かこの男、今の弘前市亀の甲町か、紺屋町辺りに住んでいたところ、切支丹の一斉検挙の際、捕縛された。検挙容疑は、地元の者である妻を切支丹に改宗させたことだった。
ところがこの男、自分は切支丹ではなく、ただの仇持ちだと言うのだ。生国の信州に確認すれば、分かると言った。
供述によれば、慶長十一年(1606)3月9日に信州巻田で笹川兼六と申す浪人を口論の末に斬殺した。更に江戸浅草前旅宿の亀屋にて女巡礼となっていた笹川の妻おせんとその娘を斬殺し、金品を奪い逃走中であった。
この男は、浅草から逃避行する際、浅草教会の取り壊しに遭遇し、津軽を目指して逃げる切支丹と行動を共にしていたものと思われる。
正体を明かしたこの男は、返り討ちにしたことで笹川一家はいないものと安心して、詳しい状況を供述したらしい。
ところが、笹川には次の娘がいて、巡礼者となり、この男の後を追っていたのだった。
やがてこの娘は、弘前にやってきて父の仇の丹下豊後を討ち果たし、信濃に帰っていった。残された丹下豊後の一家は、財産没収の上、追放となった。
当時、信州の仇を津軽で討つことが非常に珍しく人々の記憶に残り、言い伝えとなったものと思われる。
物語では、この男には浅草の教会が取り壊され、津軽に逃避行する切支丹に紛れ込み、途中で老人を拾う場面にも立会い、一行の精神的支柱の老婆が亡くなる場面にも立ち会い、最初の殉教者を見送る場面にも登場する。そしてなにより、模範的切支丹信徒を演じてもらう。
この男を通じて見えてくる切支丹の姿に、現代の我々に繋がるものが見えてくると面白いと思う。
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