2017年3月16日木曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):拒絶する村


 この部分の元になったネタは、オウム真理教の事件です。
 日本で初めて”カルト”と言う言葉が、使われだした頃に着想を得た。

 切支丹の村は、一箇所ではなかった。到来して間もない頃は、出身母体ごとに小さな集落を形成していた。それも、岩木川の左岸の僅かな丘陵地帯に集中していた。だが、中には100年以上も昔の使われていない古い砦に、居を構えた切支丹もいた。
 彼らは、従来の主従関係を維持したままだった。そして、彼らの頭領が、帳方を兼ねており、頭領の親族だけで信徒組織の重要な部分を担っていたが、支配的で独善がまかり通っていた。
 頭領の従者たちは、砦の周りの荒地を耕し始めた。頭領は、砦の空堀に水を通すために、小さな小川の開削に従者の一部を当てたが、思った成果が上がらなかった。絶対的に人手が足りなかったのだ。しかし、頭領はそのことを認めなかった。他の集団の干渉を受けたくないのだった。

 ある年の夏は、酷い日照りが続いた。更に追い討ちをかけるように、夏にもかかわらず冷涼だった。元からの地元の農民だったわけではないので、秋の収穫はわずかだった。規定の年貢をやっと納めると、自分たちの口に入る米はほとんど無かった。
 窮状を見かねた役人の佐々木と、帳方頭の善造を伴ってこの集落を訪れた。だが、門は固く閉ざされ、佐々木ら一行は追い返されてしまった。間もなく冬になった。これまでに無いほどの大雪になった。
 善造たちも、いくつもの集落で雪を片付けたり、家の補強などしていて、この集落まで手が回らなかった。春になって、再び佐々木は善造を伴って、この集落を訪ねると、雪に押しつぶされた家が累々と連なっていた。ほとんど者は、飢えて亡くなっていたが、押しつぶれた家の下敷きになって死んだ者もいた。唯一潰れていない家では、頭領が切腹して果てていた。
 傍らに頭領が書き残した文があった。

 この度の行状、我が不徳の致すところ。
 我に拘る余り、下々の者に心至らなく、惨状となる。
 この責めは、我が身にあり。
 武士たらん自ら、自刃する。

 佐々木らは、遺体を懇ろに埋葬した。潰れた家は、取り壊され新たな村作りに使われた。砦も、村の鎮守の社となった。開削途中の川は、堰となり後の新田開発の足がかりとなった。


 この集落は、実在の集落を念頭に置いて思い描きましたが、ほとんど創作ですね。
 ただ、モデルにした集落には、不思議なコトがあります。それは、爺さんが多いことです。昔から地元で生まれ育った男性は、いずれも長生きなんです。ところが、村を離れると、そんなに長生きでもない。それから集落の外から嫁になってきた女性は、足を怪我して、連れ合いより長生きしない。
 ん~、何か呪いでもあるのかな(^^?)

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