弘前ねぷた:見送り絵,慈母観音
弘前で初めて切支丹が処刑された日は、元和三年(1617)の8月4日だった。
3組の夫婦六人のキリシタンが岩木川河畔、現在のニッカ工場近くの通称、四ツ堰あたりで処刑されたとされている。
ここで、”8月4日”が重要になってくる。現在では、この日はねぷた祭りの中日になっている。本来、ねぷた祭りは、七夕のお祭りなので、旧暦の七夕に重なるように行われていた。すると、この”8月4日”と重なってくる。偶然と言えば、それまでだけど(^^;)/
そして、この”8月4日”は、切支丹信徒にとっても重要な日なのだ。翌8月5日は、現代のカトリック教会では、”聖マリア教会の献堂”と言われていて、当時の切支丹には”雪のサンタマリアの御祝日”と呼ばれ、盛大なお祝いがされていたたそうです。
聖劇を演じたり、聖歌を歌ったり、聖母像を担いで村内を練り歩いたりもした。実際の祭りは、カトリック教会の伝統として前日の夕方に始まる。”8月4日”は祭りの始まりの日に当たる。
ここからは、創作だが(^^;)/
処刑者を助けるべく助命嘆願した農民たちが、その命日に切支丹信徒と共には”雪のサンタマリアの御祝日”を共に祈り、共に祝うようになる。
だが、それも規制され、マリアの板絵の行進となり、マリアの灯篭へと変化する。やがて目立たなく見送り絵となり、今に続く・・・
Madonna della Neve 2013, uscita dalla Basilica
だが、実際には、ねぷたの運行が記録に登場するのは、この一件の100年後のことになる。
京都から絹織物の工人を津軽に招聘することに尽力した茶人の野元道玄の一周忌法要となる享保五年(1720)に、津軽信寿公が報恩寺で「眠流」を高覧したと記載されています。
詳しい記述が無いのでよく分からないのですが、子供たちが手に小さな火器を持って歩いたとありますから、恐らくは手に持てる位の小さな灯篭ではなかったと思います。
更に2年後、享保七年(1722)の三回忌法要の際には、津軽信寿が紺屋町の織座で「祢むた流」を高覧したとあります。この織座は、現在の聖母被昇天修道会弘前修道院の場所にありました。そして、あの切支丹の処刑場の近くになります。
この時点で、隊列を組んだ大人が大きな灯篭を曳いて歩いたようです。
切支丹の村があったであろう場所は、この当時、織座で作られた絹織物を保管する蔵が立ち並んでいて、蔵町と呼ばれたいたようです。
これほど濃厚な関係があって、何も影響が無いとこもなかろうに・・・
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