2017年3月17日金曜日

無名の殉教者 - 第2部殉教編(地の巻):71名の流人引取り


 京都から津軽に流罪になる流人を引き取りに派遣された津軽の役人、京都で罵声を浴びた。京都には、津軽屋敷があったので、そこから数名の藩士が受け取りに行き、流人に縄を掛けようとすると、京都側の役人が言う。

「あぁ、これだから田舎侍は困る。
 この方を存ぜぬか?
 縄をかけぬとも、逃げはせぬ。
 そのような、お方ではない。」


 津軽の役人は言い返した。

「どのような方であっても、当方、流人を預かりに来たので、
 流人として縄をかけて同道致す。」

 更に京都の役人は呆れた様子で言うのだった。

「この者は、流人なれど身分卑しき者にあらず。
 身に着けている物で、分からぬか。
 丁重に扱われよ。」

 どーやら、縄はかけなかったようですが、頭を剃って流人として津軽まで連行したようです。
 京都と言っていますが、正確には四国や播磨で捕縛した切支丹を大阪に集めてあって、その人たちを含め、京都で捕縛した切支丹や、高山右近の口利きで加賀藩に世話になっていた切支丹などが、津軽に流罪になった。この者たちは、平信徒であっても、影響力があると見られ流罪になった。
 恐らくは、鯵ヶ沢で上陸したあと、完成したばかりの弘前城に連行され、二代目藩主津軽信牧から慰労された。衣類や農具、食料などが支給され、今の鬼沢地区を耕作地としたようです。更に大身の者は、弘前城下、白銀町に備前町を作ったり、屋号を備前屋とする商家まであったらしいです。

 この一件から三年後の元和三年(1617)の8月4日にこの時の流人の中から三組の夫婦、六人が処刑されている。藩としては、貴重な労働力としてのキリシタンを処刑せずに懐柔策をとったようだ。
 更に、200年後、困窮する農民を救うため立ち上がった代理の庄屋である若者も、この鬼沢村の者であった。度重なる飢饉や疫病のまん延、岩木山の噴火などの自然災害で、切支丹の痕跡すら全く無くなっていた。それでも・・・

神は、人々に回心を求めるために、一人の若者を召し出した。

 ・・・と、私は思う。
 こじ付けと言われれば、それまでだが、神が与える恩寵は常に我々の身近な所に在りながら、中々気づきにくいと思う。
 或る事象があって、それを如何に感じ理解するか?
 我々は、試されている。

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