ねぷたのルーツに関して、幾つかの伝説がある。初代藩主・津軽為信公が京都で披露した大灯篭とか、蝦夷(えみし)征伐に来た坂上田村麻呂が蝦夷をおびき出すために作ったとか・・・
おびき出し系の伝説で、山に逃げ入った賊をおびき出すために大きな山車を作って賑やかにお囃子を鳴らすと、次々と賊が出てきて一網打尽にできた。
まぁ、いずれの説も、この道の第一人者の松木明知氏によって、否定されています。
ただ、私にはこの『山に逃げ入った賊』って辺りがちょっと引っかかります。この賊とは、切支丹だったのではないか?
・・・と言って、新たな物語の始まり・・・
三組六人の切支丹の処刑の後、弾圧が厳しくなると村を捨てて山に逃げたのではないか。この山って、ひょっとすると弘前藩所有の尾太(おっぷ)鉱山だったのではないか。以前、親父殿から聞いたことがあるのだが、江戸時代の尾太鉱山に多数の切支丹がいたことを・・・
弾圧派は、逃げた切支丹をおびき出すために予ねて没収してあったマリア像を持ち出して、囮に切支丹を嫌う村人を使って村に隠れていた切支丹を脅してマリア像を担いで切支丹の村々を練り歩かせた。すると、ほかの村に隠れていた切支丹のみならず、尾太鉱山に逃げ込んでいた切支丹まで捕らえられた。
卑怯な手口に怒る切支丹に好意的な村人たちが、マリア像を取り返した。これらの村人は、これは観音様だと言って、御輿に担いで村々を練り歩いた。切支丹に好意的な村人たちが切支丹を救い出すための精一杯の抗議行動だった。切支丹に好意的な村人たちにとって、農繁期の働き手である切支丹を取り返しかったのだ。
もはや、切支丹を留め置く理由が無くなった。切支丹が開放された時、白磁のマリア像は粉々に砕け散った。しかし、切支丹は嘆かなかった。切支丹に好意的な村人たち勧めで、村の神社の扉の内側に聖母子像を描いた。これに毎週礼拝した。そして、「雪のサンタマリアの御祝日」には、この板を担いで、村々を練り歩いた。
しかし、切支丹を嫌う村人によって、この扉も破壊されてしまった。切支丹は気づいた。形あるものは壊されると・・・
そこで、「雪のサンタマリアの御祝日」の日にだけ、蛇籠を作る技術を応用して人型の灯篭を作り紙を張った。祭が終われば、あの処刑場があった川原で燃やした。洪水に備えて蛇籠を作る技術を伝承しなければならないので、正に一石二鳥の効果だった。
弘前ねぷた 見送り絵:慈母観音
やがて未曾有の大洪水が、切支丹の村を押し流した。後には何も残らなかった。ただ、人々の記憶には、大きな人型の灯篭が残った。
およそ100年後、京都からやってきた織工とその家族が、弘前藩第五代藩主津軽信寿公に灯篭行列をお見せする際、この大きな人型の灯篭のアイディアが蘇った。ただそこは、武家の祭りとしての体裁を取り、武者人形を模して造作された。ただ、見送り絵としてマリア像の名残で美人図がそこにあった。
信寿公、大いに気に入り、もって励むようにと、お墨付きを頂き、かくて農民の祭りであった「眠り流し」は、町人の祭り「ねぶた」へと変容していった。
・・・と、私は思うね。こちっがドラマチックだよ(^o^)/
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