2017年3月24日金曜日

無名の殉教者 - 江戸時代の大規模土木工事

 江戸時代の極早い時期は、築城ブームだったようです。
 幕府から一国一城令が出されると、既存の城に満足していなかった諸大名がごぞって新城を築城したものだそうです。
 では、その労働力はどこから調達したのでしょうか?
 ほとんどは、農民だった思われます。それも農閑期の冬場とかに行われたでしょう。農繁期ぢゃ、米の生産に支障を来たす可能性がありますからね。
 でも、これって雪の降らない地方のお話だと思う。ここ弘前では、そんな悠長なことは、言ってられない。冬は全て雪の下になってしまい、作業どころでない。
 ってことで、ここ弘前では、雪の無い時期に築城しなければならなかった。だけど、農民は農作業に忙しくて、築城工事に人を出したくない。
 こんな状況下で、弘前には、農民以外に労働力があった。津軽一帯を支配していた南部家旧臣、旧豊臣政権側の武将とその一族、弾圧を逃れて来ていた切支丹信徒などがいた。
 恐らく、弘前城の築城には、南部家旧と旧豊臣政権側の武将とその一族が関わっていたと思われる。
 そして、築城後に、弾圧が厳しくなっていた切支丹が大挙して流れ込んできた。今度は、城ではなく弘前周辺の寺を弘前城の周辺に移築工事に従事した。そこ結果、弘前に大規模な寺町を構成した。現在でも、長勝寺構えとして往時の様子を伺い知ることができる。
 旧来、南部氏との戦いを想定して、この寺町に立てこもって戦うと言われていた。しかし、最近では、非戦闘員の避難施設として寺町が機能すると言う意見がある。


 城も町もできた。すると、この労働力は使い道が無くなるかと言うと、そんなことは無い。
 今度は、岩木川の河川改修工事だった。恐らく築城の際、石垣用の石材を岩木川の上流から切り出して、弘前城から最寄の岩木川の川原に荷揚げする場所を整備した結果、洪水の発生頻度が低くなったのでしょう。
 現在の岩木橋から富士見橋にかけの流域は、数本に別れて流れていた。これを、現在のように一本の流れにした。その結果、洪水が激減して耕作地が広がった。
 その新たな耕作地を切支丹に与え、集落を作らせ河川の維持管理を任せた。自分たちの集落と耕作地を守るために、洪水を防ぐために尽力することを期待されたのだろう。

 冬以外の季節で、農民を使わないで大規模な土木工事ができたことで、弘前との周辺は急速に町としての機能を充実したのではないかと考えられる。
 ただ、どーも切支丹が開墾した土地を藩が取り上げ、更に下流域の荒地を開墾させたと思われる。その痕跡が、あの化粧地蔵なのかも知れない。
 祖法に反する切支丹を保護しているわけだから、立場の弱い切支丹は藩の無理を受け入れざるを得ないことは、想像できる。
 後年、無理が行き過ぎて切支丹の末裔は、飢饉で全滅したもの思われる。

 切支丹から土地を取り上げて、よそから入植させても、自分たちで切り開いた土地ではないので、それほど治水に関心があったとは思えない。帰る場所がある人にとって、あくまで仮住まいの集落だったのでしょう。後年、大規模水害で集落は痕跡も無く押し流され、跡地には蔵が立ち並んで人は住んでいなかったようです。

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