40年近く切支丹関連の資料を漁っていて、見えてくる津軽の切支丹像・・・
津軽で初めて処刑された3組の夫婦6人。この処刑は、藩の判断ではなく、幕府からの命令だった。
処刑の理由は、単にキリスト教を信じていたためではなく、騒ぎを起こしたためであるらしい。
正確には、藩は騒ぎを起こしたことを咎めたのだが、判断を幕府に求めたところ、祖法で禁止されているキリスト教を信じるは、心得違い甚だしく処刑せよ。と言うことだったらしい。
津軽の切支丹は、一切の布教活動を禁じられた上に、穏便に暮らすことを条件に住むことを許されていた。
それが一部の切支丹が、派手に街宣活動を行ったことから、騒動に発展してしまった。更にこの騒動が、幕府の隠密の目に触れたことで、津軽では切支丹を隠避していると、幕府から嫌疑をかけられることとなった。
さて、処刑当日、見せしめのため切支丹信徒は全員、村とは岩木川をはさんだ対岸に作られた処刑場に集められた。
一同の者、固唾を飲んでひたすら黙して処刑を見つめた。藩との約束には、忠実だった。
だが、この状況に異を唱える者がいた。同じ村に住みながら、切支丹でない者だった。苦楽を共にした者を見殺しにできなかったのだ。彼らの助命嘆願も空しく、処刑は粛々と進めれた。
磔柱の下には大量の薪が燃やされ、いぶされる中、磔柱の上から大音声で語る切支丹・・・
「我ら一同、皆々様をほんのひと時も恨んだことはありませぬ!
我らが旨に拠りて、お受け致すまでのこと。
今宵、我らはらいそで相まみえん!!
イエズス、マリア、・・・
イエズス、マリア、・・・」
切支丹でない者たちから、念仏が始まった。すすり泣く声に混じって、低く、大きなうねりのように続いた。
燃え尽くされた遺体は、棍棒で打ち砕かれたのち、川に捨てられた。遺物となる遺骨やメダイや十字架を拾うために、切支丹たちは川に入った。
切支丹でない者たちは、残された遺体の一部を、周辺の土や小石も一緒に集めて、墓にした。
資料からは、処刑された人が必ずしも、騒ぎを起こした人ではない。
一連の騒動の責任をとって、信徒の代表が処刑されたようにも見える。
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