数年前の大雪で損傷した旧家の蔵の修復作業や神社仏閣の宝物などの修繕で、屏風や襖の下打ちから墨書きした文書が続々と発見されているのだとか・・・
そのほとんどが、切支丹に関係するものばかりだそうです。
京都や加賀から切支丹を流人として受け入れて厚遇したことが、全国の切支丹に噂として広まったのでしょう。
続々と大挙して来る切支丹に手を焼いた弘前藩では、判断を幕府に仰いだようです。
ただ、不幸なことに弘前藩は、幕府への忠誠の証しとして、切支丹を弾圧しました。
そのため、切支丹のみならず、その子孫である類族は、幕末まで飢饉があっても食料が与えられ、生き残ることを義務付けられていました。
現在の平川市大光寺地区に類族の集落があったようです。普段は周辺で耕作を行い、結婚や移動に制限があり、死んでも江戸から検分役人が来るまで、遺体が塩漬けにされたものだそうです。
意外と知られていないと思いますが、類族は先祖が切支丹であったと言うだけで、信仰の有無は関係無かったようです。
藩にしてみれば、切支丹の末裔を弾圧し続けていることを、幕府に示すために類族が必用だったとも言える。
そのため、幕末の長崎であったような「信徒発見」は、津軽には無いわけです。
しかし、あの壮絶が殉教を目の当たりにした人々には、心に深く刻まれたことでしょう。
情熱を持って他者に利する働き・・・
津軽のじょっぱり精神はこの辺にルーツがあるとしたら、面白いかも知れません。
じょっぱりって、漢字で書けば”情張り”となります。この精神状態は、パッションが近いと私は思います。
藩の恭順策に従い信仰を捨てた者、抵抗して類族として生き続けた者、どちらの子孫も切支丹の信仰を伝えていません。
だた、そのじょっぱり精神が、明治維新後の弘前バンドとして開花したのではないかと思います。
衣食足りて信仰は失われたが、心は残った。
・・・と思いたいですね。
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